Monday, January 31, 2011

岡田光玉曰く、「世界のメッカは伊勢」〜 伊勢と世界本山 (Okada says,"The Mecca of the world is Ise" ~ Ise and the World Shrine)

「マンナの壷−1」(2010/07)で紹介した『神向き讃詞解説』からの引用部分(p239−240)の直後に次の文が続きます。


そういう関係で、伊勢にはヤハエが祀ってあります。したがって、世界のメッカは実は伊勢であるといえます。やはり、霊(ヒ)の元(モト)つ国に帰っておられ ます。ですから、神道家とキリスト教者はどうしても伊勢に参らなければ、モウシェもイエス・キリストも喜びはしません。

いずれ、ローマ法王以下全世界人民が、伊勢にお参りをしなければならない時代がくるようになります。そうしないと、大変な神裁きを受ける時代がくるでしょう。ーー『神向き讃詞解説』p240


これについて、ネットにあった見解を幾つか紹介しておきましょう。


今の真光は世界本山の事しか言わない。伊勢のいの字も出てこない。本山なんか建てないで伊勢神宮をお参りした方がお金は掛からないのに。伊勢神宮にご奉納しても真光にお金は入らないからか。全世界人民が伊勢神宮にお参りする時代がくると予言している。絶版にするはずだよね。んな事が書いてあったら。  ーー「ここが変!真光の本!」219

世界中の人が、メッカ伊勢神宮にお参りする時代が来るって???
 大真面目にそんな事書くなんてほんとに狂ってるね。 (失笑) ーー同220

>ローマ法王以下全世界人民が、伊勢にお参りをしなければならない時代がくる

 光玉が調子に乗って、夢の中でみた根拠の無い妄想の産物だと考えるよ、普通。
 永遠にあり得ない事を平気で書くことは真光の18番だ (失笑  ーー同221



光玉は自分の「スの神」と諸宗教における神や信仰の対象とがあたかも同一か、少なくとも矛盾しないかのように説きます。〔注1〕そしてここで、伊勢にヤハエ が祀ってあり、伊勢が世界のメッカだと言っています。もし、バイブルの中の天地創造の神ヤハエが真光の『スの神』と同一か矛盾しないものであり、伊勢にヤハエが祀ってあり、従って伊勢が世界のメッカと言うのならば、世界本山の建設など必要なかったのではないか、伊勢神宮を盛り上げればよいことだったのではないか、との疑問はごく当然のことです。

伊勢神宮を盛り上げたところで、真光にお金が入って来ないことは明白です。もう一つ、自分の「スの神」が他の宗教の神々を押しのけて、一番上の神であると見せたい、少なくとも真光の『神』が立派な神であることを内外に誇示したいとの願望があったのではないかと思われます。結局真光を誇示するための建物が欲しかったということです。「神に命じられた」「神と契約し た」」「重大な使命」等と言うことにより、信者を煽り、自分の自己顕示欲とも言える願望をカモフラージュし、合わせて『スの神』は自分とは別人格であるという印象を作り出していると言えます。

「伊勢にはヤハエが祀ってある」との光玉の断定に 対し、「えっ!!??」と疑わしい気持ちが湧いて当然のところです。しかしながら、『組み手』と称する真光信者はこうした教えへの疑わしい気持ちを押さえ るか、敢えて目を瞑って、「真光は実践の宗教だから」と自分に言い聞かせて手かざしを続けます。しかし、その真光の手かざしが、嘘や作り話、無責任なことや妄想とも言えることを平気で言った教祖から来ていることを認識すれば、手かざしさえも怪しいものになります。

光玉は神道での神をバイブルでの神に置き換えてしまっていますが、誰かの珍説をそのまま借りて来たのでしょうか。それともそうした説の断片を使って、自分勝手な解釈をねじ込んだのでしょうか。いずれにしろ「伊勢にはヤハエが祀ってある」と、事実にしてしまっています。しかし、伊勢神宮でこのようなことは言っていません。「伊勢にはヤハエが祀ってある、伊勢が世界のメッカである、ローマ法王以下全世界人民が、伊勢にお参りをしなければならない時代がくる」なん て伊勢神宮でもびっくりでしょう。

このようなことを言う一方で、光玉は世界本山、主座建設推進のための教えではこうも言っています。


・(略)・・その本家に主神神殿がないんですよ。あったらもってきて下さい。神道家でも仏教家でもいい。これをどうする。 ーー『真光誌』190号ー1978(昭和53)年7月号ーp20
本家の方の御神殿があるつもりでいたらなくなっちゃっているということです。事実歴史の上で、消えているんだから・・・  ーー同p21


光玉が『本家』というのは日本のことです。〔注2〕ここでは「日本には主神神殿がない」と言っています。しかも、「なくなちゃった」とか「消えている」とい う表現は、「日本に主神神殿があった」ということが前提になっています。さて、いつ、どこにそのような建物があったというのでしょうか。さらには、光玉が 言う『主神』とはどの神のことか、疑問になります。『スの神・スシン』というのは光玉が自分の神を呼ぶのに使った名前であって、太古の昔からこの名が使わ れていたわけではありません。ここでの『主神神殿』の『主神』とは、名前が何であれ、『天地創造神』のことを指すと思われます。光玉は天地創造神としてヤハエもその教えによく登場させます。「伊勢にはヤハエが祀ってある」というのもその一例です。「伊勢には(天地創造神の)ヤハエが祀ってある」ならば、 「日本には主神神殿がない」という光玉自身の言葉に矛盾することになります。彼の言うことはちぐはぐで、実質的には現実世界から遊離したものを自信を持っ てしゃべっている、ということであって、『奥の奥があるのだろう』と言って済ませられるものではありません。

それに、どうやら光玉の言う「歴史」とは彼の頭の中での「歴史」であり、必ずしも現実世界の歴史ではないようです。宗教に関しても同じようなものです。光玉 の言及する諸宗教の神は、彼の頭の中での「神」であり、必ずしも現実世界における諸宗教の「神」ではありません。だから次のようなことが平気で言えるのでしょう。


お名前はいろいろありますけれど、メシアと言ってみたり、ヤハエと言ったり、ミロクといったり、日本では天照主と言ってみたり、いろいろありましょうが、みんな一つの神様を信仰しておられるということです。ーー(『御対談集』p194)


ヤハエ、ミロク、天照主...等々、宗教によって名前は違っているけれど、皆同じ一つの神、天地創造の神のことだと言っています。具体的かつ現実的な面を無視して、簡単に同じ神にしてしまっています。しかも、その『一つの神様』とは、自分の真光の神だというわけです。次の陳述はそれを示唆する一例です。


実在されている天地創造神に、帰一しなければならない。・・・(略)・・・地球は一つである。創造の神も一つである。・・・(略)・・・  ーー『大聖主』p209


光玉の言う『実在の天地創造神』とはもちろん自分の神『スの神』ということです。つまり「真光の神である『スの神』に帰一しなければならない」ということです。他宗教の神々を一緒くたにして、さて、どれもドングリの背比べである、しかし、自分の神こそ一番上の大元の『天地創造の神』である、従って真光は諸宗教を超えた『人類教』である、だから他宗教でも真光の神を受け入れて、自分の真光に一体化するべきである、という主張が底にあります。〔注3〕 むろんこのような主張は光玉の自分勝手な見方から来ているに過ぎないのですが。

それに, 真光の主神神殿では「主神以外の神を絶対に祀ってはならない」とも言っています。〔注4〕 ここで『主神』というのは明らかに真光の神の『主神』です。つまり、崇教真光の世界本山にしろ、世界真光文明教団の世界本山にしろ、その神殿は真光の神の神殿であって、他宗教の神を祀る神殿ではないのです。「主神以外の神を絶対に 祀ってはならない」ということは、光玉は他宗教での神や信仰の対象を排除していることになります。真光の神と他宗教での神や信仰の対象とは同じか矛盾しないかのように説くのは誤魔化しということになるでしょう。

さらに、光玉の『天地創造神』は「どの宗 教でも自分を『主(ス)』と呼べ」「ミロクだ、天照主だ、メシアだ、何だというのは神様嫌がっている」「神様としては、いろいろの名前をつけられてうるさいし、誤解するから、今後の人類にはことごとくス(主)と称名させよ』」と言っているとの光玉の言葉があります。〔注5〕

これらの光玉の弁を合わせてみると、要するに、諸宗教の神の呼び名も自分の神の名『スの神』に統一し、宗教世界を自分の真光で塗り替えようとの野心があったと取れます。そして派手な神殿を建てて世間に見せつけることが真光(及び自分の名)を不動のものとするのに必要かつ効果的だと考えたのではないでしょう か。〔注6〕

冒頭での引用部分に「そうしないと、大変な神裁きを受ける時代がくるでしょう」と、光玉お得意の脅迫もしっかりと入っています。今の真光は世界本山のことしか言わないということは、この脅かしも結局ハッタリだったことを教団自らが示していることになりませんか。信者に『救い主様』と呼ばせ、奥津城と称する派手な墓も建てたけれど、真光の創設者(崇教真光の創設者ではない。崇教真光の創設者は岡田恵珠である)の元々の教えとその言葉を今の真光がそう大切にしているわけではないということでもあります。「真光の世界本山は、一番上の神様を祀っているのだから、こちらの方が世界のメッカだ。救い主が何と言ったか知らないが、伊勢はもうどうでもいいの。」と勝手に言い張っているかもしれません。

「伊勢云々」の光玉の陳述は、自分の広げた大風呂敷に放り込んだ数多くのがらくたの一つだったと言えそうです。
 
それにしても、つくづく光玉の神は、神裁き、火の洗礼、人類が夢想だもしなかった現象ー世界的な天変地異を起こす,役に立たなければ(焼き)捨てる.... 等々、相当破壊的な行為がお好きなようです。〔注6〕 そのくせ「神はおおらかな愛をもっている」「神の愛は徹底した利他愛で、与えっぱなしである」とも光玉は説きました。〔注7〕 これが同じ真光の神だと言うのならば、光玉の神って、ジキルとハイドなんでしょうか。


〔注1〕『光玉曰く「一神即多神」』『スの神と呼べ』(2008/02)参照。

〔注 2〕『真光誌』190号ー1978(昭和53)年7月号ーの光玉の教え参照。240号ー1982(昭和57)年9月号ーにもほぼ同じ教えが載っているが、 削られたり、言い換えられている部分、さらには挿入部分が見られる。神がモウシェ、ダビデ、ソロモンに渡って「自分の神殿を造れ」と命じたとし、「わしの 神殿」「エホバの神の神殿」を「日の神の神殿」とも言い換えている。ダビデ(240号ではモウシェになっている)を守ったのも、「その目的は西の世界に日 の神の神殿を造らせることにあるのだ」と明かしたと言う。(190号p17/240号p20)そして、次のように言っている箇所がある。

今お話ししたことは枝(エダ)の神様、すなわち分家の方のヨーロッパの主神神殿の建設という問題の歴史です。ーー『真光誌』190号p20
今、お話したことは分家の方の主神神殿建設の歴史です。ーー『真光誌』240号p24

〔注3〕『諸宗教の役割と真光』(2008/03)参照。

〔注4〕『真光誌』240号p23。『真光誌』190号p19では次のようになっている。

・・・いわゆる主神というものが他に違わないということです。他の神様に変わらないようにしていかねばならん・・・
〔注5〕『スと呼べ』(2008/02)参照。『御対談集』p188、『真光誌』263号ー1984(昭和59)年8月号ーp36。

〔注6〕『大聖主』p253に「主座神殿の原型は、聖凰師が、何年もかけて、情熱をこめて推考を重ねられた神秘的な設計である。」との記述が見られる。

〔注7〕「役に立たなければ・・・」は『御聖言』p109参照。

〔注8〕「神の愛は徹底した利他愛で....」『真光誌』358号ー1992(平成4)7月号ーp33。


ーー火の鳥Phoenix3000

2 Comments:

Anonymous Anonymous said...

Do you speak english?

March 10, 2011  
Blogger Anne said...

Yes.

March 11, 2011  

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