Saturday, June 07, 2008

真光の祖師、岡田光玉の『借金返し』の件について

To the English reader,

When I was in the Mahikari cult, I frequently heard its earnest members saying "Sukuinushi-sama (or Oshienushi-sama) says this and that'" as if he or she had the absolute power and truth. Now I see that they were totally unaware of the cult's deceptions and manipulations.

How much information does the cult give you of these two - Okada, the founder of Sekai Mahikari Bunmei Kyodan, and Ms Okada, the founder of Sukyo Mahikari?
Is there enough information about who they were/are?
Is the information correct without any ambiguities or any hidden facts?
Is it based on actual records, or based on what Okada himself said?

If a person (or an organization) has been dishonest about himself, do you think you should believe his claims of having direct contact with Creator God?
If what he says is vague about factual aspects, ambiguous, inconsistent, even just hiding some important facts, don't you wonder whether he is telling the truth?

This post quotes some of Okada's statements about going into business after leaving the military, his business being destroyed in an air raid, his huge debt and paying back the debt, and raises many questions.

ーー Phoenix3000


「真光と犬の話」「真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』<その一><その三>」で下記の部分を引用しました。

  たしか昭和三十四年の二月二十七日ですが、私の家の神様を拝んでいたら、大きな声で「光玉を名のれ。きびしき世となるべし」という声が聞こえ たのです。娘はひどいことを言うんですよ。「お父さん、リンゴみたいな名前ね」なんて言う。(笑)「神様が下さるならもう少し念の入った尊いお名前をい ただいたらどうなの」「そんなことを言うもんじゃない」というんで「光玉」と名のった。それから「手をかざして人の病気を治せ」と言われるでしょう。
  私ははじめ、自分にそんな聖者みたいな真似が‘出来るとはいくら馬鹿でも考えられない。そんなことを考えるのはそれこそ気違いだ。待てよ、 借金返しに夢中で自分は気が変になったのじゃないか、ひょっとしたらキツネかタヌキに憑かれたんじゃないかというわけで、一週間くらいは立ち上がる気は 全然しなかった。ところがふと犬に手をかざしてみたら犬の病気が治っちゃった。 ...  ーー『御対談集』p280−281
 

「そんなことを考えるのは気違いだ ... 自分は気が変になったのじゃないか」という光玉(本名:良一)の表現の裏には、『気違いが自分を気違 いかなとは思わないだろ、だから俺のことを気が変だとは言えないぞ』と、聞く人の心理を先取りしようとしています。「キツネやタヌキの霊に取り憑かれたの かな」という言い回しもその類いです。 〔注1〕 『自分だってこの出来事を疑ったんだから』と示唆することによって、いかにも『神の声』が、自分の存在 の外から聞こえたかのように、聞く人の心理を操作しようとしています。別の表現をするのならば、人の心理を計算しているということです。『御対談集』のこ の箇所は、昭和49年2月、本山博氏との対談の中での光玉の言葉です。『最初の啓示』があったとする昭和34年とは15年の歳月の差があるとはいえ、同じ 出来事を同じ人物が話しているのです。しかも、教団の中級テキストで仰々しく、次のように表現されている、『大きな出来事』のはずなのです。

  昭和34年2月27日午前5時、高熱による五日間の人事不省から醒めた救い主様に、突如として,主神様より御神示が天降った。
  神界、幽界、現界を通じての歴史的転換期であり、まさに人類の夜明けであった。
  この時、救世者、救い主様が誕生され、霊文明の開花の幕が切っておとされた。  ーー『中級 真光研修用テキスト』p2

「家の神様を拝んでいたら...大きな声がした ...」というのはなんとも普段の日常時のようで、研修テキストの華々しい言葉を使用した描写と は似ても似つきません。光玉の『神』も仰々しい言葉や言い回しをよく使いますが、真光教団も、実際の事実や真実とは関係なく、劇的な言葉、華々しい表現と いう「厚化粧」で、光玉の主張やその人物像を粉飾し、それで押し通そうとしています。さらに言うと「厚化粧」というのには、言葉の表現だけではなく、正確 な情報を伝えず、現実の事実を隠蔽したり、曖昧にしたり、ねじ曲げたり、誇張したり、嘘を絡めたり、他から自説に合うもの、しかもあやふやなものや荒唐無 稽なものを借りて来て、自説を証明していることにしたり、他から取って来たものを自分のオリジナルとして扱ったり ...ということも含めることができる でしょう。  

ここでは特に『借金』の件に焦点を当ててみましょう。「待てよ、借金返しに夢中で自分は気が変になったのじゃないか」という表現によって、終戦直後から昭和34年の『最初の啓示』の直前まで、借金返しに夢中だった、と言っていることにもなります。「無我夢中で働いて借金を返し終わった」(『御対談 集』p279)と光玉自身言っている箇所もあります。

次の引用を見て下さい。光玉のおしゃべりは、どうもぼやけていて、やりにくかったのですが、借金に直接関係ありそうなところをできるだけ拾うようにしてみました。


  ...現役を退いて、実業界へ。 ...
  「あと三年の命というのなら、私は、戦時生産でお国の役に立とうと思った。父が経営していた繊維会社を、陸軍の飛行機製作会社に切りかえた。私は、親が残した全財産を投入した。飛行機会社の外に、製塩、炭鉱、材木、繊維会社など,五つ,六つの事業に、全精力をそそいだのである。 
   飛行機会社や炭鉱をやった時は、自己資金が三十パーセントで、七十パーセントは借金であった。不思議にも、神様のお陰で、事業はめきめき発展する。体も丈夫になって、コルセットを外すようになった。
   ところが、終戦直前の爆撃によって、一朝にして、私は全事業と全財産を失い、マルハダカになった。 ......
  ...(略).....
   私に残ったものといえば、ゾウリのようなすり減ったゲタ一足と、シャツ二枚。そして、戦災の借金だけ。経済的には、王侯の如き生活から、貧の極地、ドン底生活に転落したのである。」ーー『大聖主』p70−71


  戦時中は、陸軍の飛行機製造会社の社長をしたり、ほかに繊維会社など三つばかりやっておりました。 ーー『大聖主』p202


  戦時中、私は飛行機の会社を興します時に,神様仏様に一生懸命祈ったんですが、私は病気になった、背骨をやられて入院した。... 朝晩一生懸命にお祈りをやりました。 ... 一生懸命に祈りましたら、体の調子は グングン良くなってきてコルセットはとっちゃうし、 ...モリモリ儲かっ ちゃったのですね。こんどは儲かったために信仰を忘れちゃって我がでる、慢心する、悪いところへ行って金を惜し気もなくつかい遊ぶ。そんな罪悪を犯したわけですな。三年目に空襲でペチャンコにやられた。丸裸になって、のこったものは負債、借金です。それがため十何年間、人にいえない苦労をしました。その苦労の結果、いまサトラされているというのはそれがミソギだったということです。それをサトリました。...一生懸命信仰をとり戻しました。不思議な現 象で、それから借金が返せるようになり,昭和34年1月にぜんぶ返済が終わった。 ーー昭和40年10月笠原一男氏(東京 大学助教授・文学博士)との対 談 ー 『崇教真光30年史』p245/『御対談集』p123−124


  最初に立教しようとしたのは昭和三十五年のことですが、本当に立教したのは三十八年です。ですからもう十四年前になりますが、その時には自分でも気が狂ったのか、天狗か狸に憑かれたのか、と判断したくらいに変な現象が起こりましてね。 〔注2〕
  最初からお話ししますと,私の家では先祖のころから、小さいながらも神様をお祀りしていたのです。天照主大神と出雲の神様、国常立神とその神魂と伝えられている大国主神です。 ...戦前に私が事業を興した時ーー飛行機会社とか繊維会社を興したのですがーーその時は夢中で拝んだわけです。そうしたら、飛行機会社は儲かるし、繊維会社も儲かる、というわけでますます一生懸命になって神様を拝んでいたんです。 ... ...
  ところが、事業を興す時だけは本当に真剣にやりましたが、僅かの間にたちまち儲かってしょうがない。そのうちにいろいろ悪い事もするように なっちゃった。戦争が始まったころ、神様の御神体と御先祖様の位牌を風呂敷に包んで、親戚の百姓家に疎開したんです。 ... 戸棚の下の戸袋に放り込 んできちゃった。商売も万事うまくいくし、最初、神様に頼んだ事なんか忘れちゃった。(笑い)
 [本山氏 こんどは罰の当たる順ですね。 (笑)]
  そうしたら飛行機会社も繊維会社も炭坑も爆撃でみんなやられて、丸裸になったわけです。先祖から多少残った財産を全部事業につぎ込んでやった ところをバタバタとやられちゃって,戦災の借金だけが残ってどうにも返しようがない。食うに困って乞食になるかどうするかというところまで行った。それで私、借金は一生かかっても返せないが、とにかく返せるだけ返したいと思って行商をやったのです。なかなか思うようにいかないでいるうちに、ある時ハッと気がついた。待てよ、あの神様と仏様はどうしたかな、 ...頼む時は夢中で頼んでおいて金が儲かればすっかり忘れちゃった。そこで気がついて、友達から千円ばかり借りて汽車賃を作り田舎へ取りに行った。戦争が終わって、数年経ったころでしたが、神様の御神体と先祖の位牌とが埃とクモの巣だらけでクチャクチャになっていた。 ... 今後はきちんとしますからというので東京に持って帰ってきた ...お詫びを始めたら、不思議に商売がうまくいくんですよ。 ...  ーー『御対談集』p276−278


  「王侯から、ルンペンへ、人生ゼロになったとき、ハタと気がついだのは、神様とご先祖の位牌のことである。あれほど、事業を始めるときには、拝んだり、お願いしていた神様や御先祖の位牌が、田舎の親戚の戸袋に、ほうりこんだままになっている。
  友人から汽車賃を借りて、あわてて山奥の町まで行き、...(略)...
  それを東京へ持ち帰り、...神様とご先祖の位牌をお祀りした。
  こんどは、一所懸命にお詫びした。 ...
  すると、次から次へと、摩訶不思議な現象が起きてくる。三年のうちに腐るといわれていた骨は、腐るどころか、病院で検査したら、骨が出来てしまっていた。
  私は、長い間、苦しみがつづいた。その間に、自殺も考えた。 ...   ーー『大聖主』p72−73


  無我夢中で働いて借金を返し終わった。それが私には不思議でしょうがない。親父が大切にせいという御先祖と神様をきちんと拝んだら、借金が不思議に返せる。 ーー『御対談集』p279


  この借金を返せたことについてもいろんな不思議な現象とか物語があるのですが、ともかく人力で出来ないはずのことが出来ちゃうんだからしょうがない。そして本当にきれいに借金を返し終わったんです。そこで気がついたのは,自分の知恵では出来ないような事ができたのは神様と仏様のお陰だな と、真剣に考えるようになった。...自分は神様のお力で、また先祖の共同活動によって、初めて借金を返すことが出来たと思いました。....     ーー『御対談集』p279−280


これらの部分から疑問点を幾つか挙げてみます。

*「戦時生産でお国の役に立とう、と、軍の飛行機を製造した」というのは、元軍人として立派である、と考えて欲しいのかもしれませんが、別の見方をすれば、そう考えた良一も所詮戦争の時代の枠を超えていなかった、との見方も可能ではないでしょうか。「お国のために」が「人類のために」と言葉ではすり替わっても、天皇崇拝、日本が世界の中心であるべきである、という思いは持続させていた良一です。それがやがて「天皇崇拝、天皇中心の世界」を唱えながらも、自分の始めた真光が中心になる世界を思い描くことに微妙に変化していったとも取れます。

*良一が事業を興したのはいつだったのでしょうか。「戦前」と「戦時中」が出て来ます。

*『御対談集』(p276)で「戦前に私が事業を興した時ーー飛行機会社とか繊維会社を興した」と言ってますが、『大聖主』(p71)では「父が 経営していた繊維会社を、陸軍の飛行機製作会社に切りかえた」と言っています。この二つはちょっとずれています。それに、『30年史』によると、大正6年、良一が16歳のとき父親が54歳で死去しました。「父が経営していた繊維会社」は父親の死去後も、約25年間その機能を果たしていたということなのでしょうか。またもう一つ、父親は岡田稲三郎陸軍少将主計総監(『大聖主』p47)だったということで、実業家でもあったとは言っていません。陸軍に勤めながら会社も所有し、「経営していた」のでしょうか。

*良一は一体いくつの事業を興し、それらは正確には何だったのしょうか。ある箇所では「五つ,六つ」と言い、別の箇所では「飛行機会社のほかに、三つばかり」と曖昧です。また、それらの記録が残っているのでしょうか。

*戦争が始まったころ、疎開したと言ってますが、疎開した先から事業は続けたのでしょうか。経営者は疎開し、従業員は戦火の激しい地に残って仕事をした、ということでしょうか。

*戦災の借金だけが残った、と言いますが、その記録はあるのでしょうか。

*借金を返したいと思って行商をやった、と言いますが、何の行商でしょうか。草履を売った、ということを聞いたことがありますが、ネットで指摘されていたように、それでは借金を返すところまでは到底いかないでしょう。

*いつ、『御神体』と『位牌』を田舎に取りに行ったのでしょうか。「戦争が終わって、数年経ったころ」と「人生ゼロになったとき、ハタと気がつい て、東京に持ち帰った」とは、ピシリと合いません。「人生ゼロになったとき」とは、戦災で借金だけが残ったとき、つまり、終戦直前のこと、遅く考えても、 終戦直後のことになります。
 
*丸裸になったが、神と先祖にお詫びをしたら、不思議に商売がうまく行った、ということですが、いつ頃『不思議に』商売がうまく行くようになったのでしょうか。また、何の商売だったのでしょうか。

*「無我夢中で働いて借金を返し終わった」(『御対談集』p279)と言うからには、働くことに集中したはずです。にもかかわらず、具体的にどんな仕事をしたのか、良一も教団も言わないというのは奇妙です。具体的な仕事として登場するのは昭和28年の多田建設株式会社に重役として就任した、という件です。ここから「借金返し」が始まったとすると、「丸裸になったが、神と先祖にお詫びをしたら、不思議に商売がうまく行った」というのとはどうもしっくり来ません。

*本当の家族のことはどこにも出て来ません。

『御対談集』の上記の部分で『娘』と出て来ますが、これは『養女』である恵珠のことで、本来の家族のことは教団の外の情報でしか掴めません。〔注 3〕 『大聖主』の良一の年譜にさえ結婚のことは出ていません。恵珠にしても、良一を『我が父』と呼んで、うるわしい父娘の関係であるかのように聞こえさせていますが、この父娘関係は昭和34年の『最初の啓示』を境にして突如として出現します。それ以前のことが ー 恵珠の素性も、良一との出会いも、養女となる経緯も含めて ー 一切ありません。崇教真光の出版物で『養女』とあるのさえ見かけません。どうやら父娘の関係は表向きであって、裏には隠している事実があると見てよいでしょう。

*世界救世教との関わりが一切登場しません。いつ、どのように救世教に巡り会ったのか、戦後、世界救世教に所属し、浄霊をやり、幹部まで勤めたことにも一切触れていません。つまり、隠蔽しています。

世界救世教に所属した間、良一はそこでの神(〔注4〕)を拝み、浄霊という手かざしを行っていたわけですが、良一も崇教真光も、この事実を伏せています。崇教真光は良一の救世教所属を否定しさえしました。〔注5〕 上記引用部分でわかるように、良一自身も、事業を興すときも戦後も、自分の家に伝わる「御神体」を拝んだ、ということで済ませてしまっています。あくまで世界救世教との関わり、しかも幹部までしたほどの深い関わりを公にしていないわけです。けれども、岡田茂吉が考案した「おひかり」というお札が、戦時中、弾除け、空襲除けになるとして評判になり、飛ぶように売れ、いい商売になったということも世界救世教に入信する前か、入信後には知ったことでしょう。事業経営の経験のある良一が、これにも目をつけ、宗教は金になる、と思ったということも充分考えられます。

〔注1〕「真光の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』について<その四>」参照。
〔注2〕『御対談集』のこの箇所も昭和49年2月、本山博氏(文学博士)との対談の中での光玉の言葉。引用部分の昭和35年、昭和38年、14年前、というのは原文のままであって、こちらのタイプの打ち間違いではない。
〔注3〕ここ ー 2004/01/30---陸士第34期生会会員名簿を参照のこと。
〔注4〕大光明真神。「大光明主神」とあったのもある。漢字が違っても「みろくおおみかみ」とひらがなではなっている。
〔注5〕ここ ー 2003/04/28--- 『K.T.からの手紙』参照


<続く>

ーー火の鳥Phoenix3000