Sunday, January 20, 2008

真光の祖師岡田光玉曰く、『どんな病気でも治るんです』

To the English reader,
Sukyo Mahikari claims that Mahikari-no-waza (=tekazashi, okiyome, purification) is spiritual light given by God to save people who are suffering, and that it is a miraculous method of divine healing, yet that it is not a method of curing diseases. The claim that it is not intended to cure diseases is frequently used as an excuse when tekazashi doesn't work, along with other many possible reasons why it does not work.
Kotama (Yoshikazu) Okada, who started Mahikari and founded Sekai Mahikari Bunmei Kyodan (not Sukyo Mahikari), talks about the effect of tekazashi very confidently in the book "A collection of interviews with Okada (Go-taidan-shu)". Here are some of his phrases:

"Any diseases will be cured.... cancer, blindness, palsy...
To speak to the extremes, there are, in fact, almost no incurable diseases in front of us. ....
Divine light, or True light can cure all sorts of diseases and injuries. . . . ."

If tekazashi was what Okada claimed it to be as seen in this book, then, no one would hear "tekazashi is not for curing diseases" as an excuse for tekazashi not working.
Maybe it's time for the Mahikari followers to question the fancy words the cult uses to describe tekazashi, or "true light", look around and try to see the reality.
The title of the following Japanese post is: Kotama Okada, the founder of Mahikari, said, 'Any diseases will be cured.'
----Phoenix3000


真光の業は「悩み苦しむ人々を救う為に神様が下し給うた霊光」(『崇教真光30年史』p41)であり、「神癒の業」(同p45)であるけれど、「病気を治すという業ではない」、「不幸現象の霊的原因を解消し、人類を根本的に救う神業(かむわざ)である」(ホームページ)けれど、「病気を治すという業ではない」-----どこかずれていませんか。

不幸現象(ここでは病気だとしておきましょう)の霊的原因は解消するけれど、結果として病気が治らなくてもいいのです。真光の業で霊的原因が解消されるのだ、それだけで素晴らしいんだ、病気が治る、治らない、には関係ない、だから、病気が治らなくても文句を言うな、ということでしょうか。

真光の業で、治病現象のようなあらゆる奇跡現象、信じられないことが起こります、論より実践、まず体験、という誘いの仕方をホームページでもしています。そのくせ、やってもそういう体験をしなかったならば、また、悩みが解決しなかったならば、これは病気治しではない、御利益信仰ではない、といった言い訳が用意されています。つまり、真光の業で、治病現象のようなあらゆる奇跡現象、信じられないことが起こる、と言って誘い、いざ真光をやってみると、奇跡現象、信じられないような現象が(あなたに)起きるなどと期待するな、ということなのです。真光の業は『不幸現象の霊的原因を解消し、人類を根本的に救う神業』であるとの崇教真光の主張も、仰々しい言葉を使っているけれど、単なる言葉に過ぎないことになりませんか。これが『一切を浄め、あらゆる悩みや問題を解決していく業である』(ホームページ)と言えるのでしょうか。

「真光は『霊的に浄める偉大なみ力を発揮する』(『崇教真光30年史』p42)」と教団が主張したところで、その力が発揮された『結果』が出るとは限らないのです。たぶん期待された結果が出ない方が普通でしょう。しかし、手をかざす信者(組み手)は、手をかざすという行為によって変化が起きた、起きている、と解釈するよう、『み教え』というもので思考がプログラムされています。ですから、たとえ信者が奇跡と呼ぶような現象があっても、真光の業との関係を立証するものとはなりません。信者がそう解釈し、信じているだけでは、信者間ではそれで通っても、第三者にとっては何の証明にもなりません。第一、『霊的に浄まった』のか否かについては、誰にも納得がいくような物差しなどありません。そんな曖昧なものを引き合いに出して、『霊的に浄める偉大な力を発揮する』と力説しても、張り子の虎のようなものでしょう。『偉大な力を発揮した結果』も曖昧ではこの主張は増々空ろなものになります。

では、真光を始めて、世界真光文明教団(崇教真光ではありません)を設立した岡田光玉(良一)の言ったことを『御対談集』(1985年発行)で見てみましょう。光玉は「病気が治る」ということを前面に謳っていました。

 それでどんな病気でも治るのです。癌だろうが、目が見えなかろうが、中風で寝たっきりだろうが、イエス様がやったと同じことです。目は開けてしまうし、それから中風で寝ている人は働けるようにしてしまうし、癌の人はきれいに癌をとってしまう。そういう病の方はそれで解決できます。ーー『御対談集』p174

  <司会が「今でも治療は”手当て”といいますね。」と言ったのに対し>
 それなんですよ。実は手をかざすんです。本当に治るんですよ。極端なことを言えば、不治の病というのは、われわれの前には実はほとんどないんです。これでやればいい。(...と手をかざす形をして...)
 みんながこれを体得しますと、なるほど神に光がある、ということがわかっちゃう。やけどをすればこうでしょう。けがすればこうでしょう。熱を下げるのもこれでしょう。万能選手。
  ...(略)...
 お医者さんも腎臓病とか糖尿病とかいう患者に手をかざしてみると、簡単に治っちゃうんです。...(略)...
 要するにわれわれのほうは、十年前から全国でやっておるわけですが、神の光、真の光というのは、あらゆる病気でも、傷でも治しちゃうことができるということです。極端にいうと、われわれの世界に、内科医学は要らんということなんです....ーー『御対談集』p224−225

 私の方では「法定伝染病は手をつけるな」と組み手には原則としていっております。法定伝染病というのは医者以外に頼ってはいかん、といっておりますけれども、他の病気は大体家庭でみな治してしまいます。ーー『御対談集』p228--〔注〕

  ...再発するなんて冗談じゃない。今までの対症療法(人類にはこれしかない)では、再発、再発の繰り返しと慢性化、次いで業病化以外にない。原因療法には再発はない。原因の方を取ってしまうんだから、取れたら病気しようといっても本来無理である。その区別すら今の人はつかないのです。また仮に再発するとすれば、そのたびに一層に霊肉ともにクリーニングされて、若返って無病化、無災厄、幸福化人間になってしまうだけで、早く幸せ者になれていい。ーー『御対談集』p84

また、『大聖主』によると、ヘラルド・トリビューンが、昭和47年(1972)12月29日付けで、教団の紹介記事を載せた、とあり、その記事は次のように始まります。

 パリ発「ガン? もちろん、なおります。チフス? コレラ? もちろん!」
 ピンクの和服を着て、スリッパなし、白タビをはいた日本女性は、ほほえみを浮かべながら、英語もフランス語も話さない彼女の同志に、私の質問を伝えてくれる。ガンが治るということは、誰にでも興味のあることだ。
  ...ーー『大聖主』p215

なんとも頼もしいではありませんか。こんなに自信のある言葉を聞くと、信用してしまいそうだと思いませんか。

人って、自信を持ってしゃべる者に対して、どうして弱いのでしょう。あんなに自信たっぷりに言っているのだから、それ相当の根拠があって言っているんだろう、だから、あの人の言っていることは本当に違いない、と。相手の示す自信に飲まれて、肝心の根拠とその人の言っている内容とを充分吟味することをはしょって、その人の言うことは本当なのだろう、正しいに違いない、と思ってしまう、という心理です。自分に悩みがあって、わらをも掴みたいという状態にいると、なおのこと、こういった光玉の、自信ある言葉に希望を託して、飛びつきたくなるかもしれません。光玉は人のそういう心理を知っていて、意識的に活用したのか、もともと事実とは関係なく自信を持って話をし、聞く人をいつの間にか自分のペースに乗せてしまうことが得意な人物だったのか、それとも、妄想の強い性格で、自分でもそれを信じ込んでしまっていたことから来る自信なのか、考えてみるのも興味深いところかもしれません。

確かに光玉はその手かざしの効用に関する「威勢の良さ」をちょっと落として、「病を治せという考え方ではない」「病気を治すのが(主)目的ではない」とも言っていますが、同時に、病気をしない人間にしてしまう、ついでに治してしまう、と相当期待を抱かせる言い方をしています。下記の引用文を読んでください。

  ...病気を治すのが目的ではない。人間の魂を良くしてしまうことが目的です。いわゆる人間を神にだんだん近づけていくことが目的で、病気を治すというのはその行きがけの駄賃ということになる。ついでに治してしまうわけなんです。
 何故病気が治ってしまうかと言うと、どうせそういうのは悪い霊ですから霊界でも生きてたときの病気持ったままなんですよ。
  ...(略) ...
 だからこの霊が脱けると人間が良くなる。ついでに病気が治ってしまいます。だから病気治しが主目的ではないのです。ーー『御対談集』p177

  ...まず人間の体を無病化させてしまう。病を治せという考え方ではないんです。その人が病気をもっているのをきっかけにして病気をしない人間にしてしまうということです。 ーー『御対談集』p115


「真光の業(=手かざし、お浄め)は病気を治すという業ではありません」との崇教真光の断り文は、上記引用の光玉の言い分「病気治しが(主)目的ではないが、ついでに治してしまう」とはちょっと違っています。真光業の効果がない時にその言い訳として、頻繁に引用されるようになったからです。光玉の言い方に倣って、仮に「目的」という言葉を補った表現も考え合わせてみましょう。

「手かざしは病気治しではない」と「手かざしの目的は病気治しではない」です。どちらにしても、「手かざし(の目的)は病気治しではない」ので「結果として病気が治らなくてかまわない」、さらに、「病気が治らなくても、真光の業や教団が悪いのではない」といった含みで崇教真光では使われています。

こうして見ると、光玉の(そして光玉時代の)頼もしい効能書きは、結局は非現実的であったことも示唆していると言えるでしょう。上記に引用した光玉の言葉(光玉が自信を持って宣言してはいますが)のようには、真光の業は働かない、ということを図らずも示しているということです。

信者の方が、冷静になって(それができれば、の話ですが)周囲を見回すのもいいでしょう。不治の病はほとんどないほど、真光の業で本当に病が治っていますか。癌が治り、中風が治り、目の見えない人が目が見えるようになりましたか。『聞いた』『真光誌で読んだ』だけではなく、第三者の検証に耐えうる資料がありますか。再発するようなことも起きませんでしたか。信者は皆、無病化人間になりましたか。

教団にとって都合がよいことに、真光では、『尊い』真光の業が働かないのではなく(実に上手にこの点から信者の目をそらせます)、個々人の信者のほうに問題があるのだ、と責任転嫁されます。「神は大愛であるから、汚れ切った人類を救おうと、一切を浄める真光の業を初めて人類に許されたのだ」「御神縁があって、この真光に導かれたのだ」「君達は神の(選び)子である」「組み手は次期文明の種人である」...等、一方で信者に希望をちらつかせつつ、霊障がきつい、曇りが深い、罪穢いっぱい、魂が汚い、我が強い、想念が悪い、手かざしが不充分、お詫び・感謝が足らない、奉納が足りない、お導きが足りない、...等々、教団が信者を責め、信者が自分を責め、また他の信者を責める概念が種々用意されています。「想念を転換しましたか」「手かざし(お導き、奉納、お詫び...等)が足らないのでは」といった問いかけで、信者の謙虚さ(謙虚さといっても、真光そして教団を真理の絶対権威者として追従することから来る弱みのようなものですが)を利用して、罪悪感を引き出します。信者はこの罪悪感に引きずられて、真光で教えられた、良くならない様々な理由を、個々のケースに当てはめて、それで説明がつくかのように思い込まされ、「ある」とされるそれらの問題を少しでも減らそうと、増々教団に奉仕しようとします。こうなると、信者には真光の業(そして真光そのもの)への疑問を抱いている余裕はありません。

ここで例として挙げたものは、真光の業の効果が無いことに対する言い訳の一部です。それでもかなりの数です。『人類救済の業』にしてはその効果を妨げるものが多過ぎませんか。逆に言えば、『真光の業』自体は教団(そして光玉)が主張するような『偉大な、万能選手的力』を持っているものではなく、『組み手』の「信じ込まされている心」に依存している可能性が多分に強いことを示唆すると言えないでしょうか。『高次元からの神の光』『奇跡の霊術』『人類救済の業』『霊的原因を解消する業』『一切を解決する業』...である、と華々しく謳っても、現実世界から見たら「絵に描いた餅」に過ぎないということです。



〔注〕この引用部分は藤田義郎(政治評論家)との対談の中に見られ、昭和45年(1970)1月の日付が付いています。かつての法定伝染病にはコレラ、腸チフス、パラチフス、発疹チフスも含められていました。「私の方では『法定伝染病は手をつけるな』と組み手には原則としていっております。...」と光玉がここで言っているにも関わらず、1972年のヘラルド・トリビューンの記事では癌と一緒に「コレラ、チフスが治る」として真光の人により挙げられています。ちなみに、この時の法定伝染病を含む伝染病予防法は廃止され、平成11年に感染症法が施行されたようです。

〔付加〕真光関係者集合の最近の書き込みを二つ紹介しておきます。

*その奇跡のご守護体験談だって、月並祭などで発表する段階で色々都合よく書き換えさせられるというのであてにならない。

 真光誌に載る頃は更にひどくなるようだ。うちの道場で結構感動的だった体験談が真光誌に掲載されたときは無味乾燥なつまらない話になっていた。月並祭では発表者の内心の葛藤や苦悩、途中の苦労が語られて、本人の人となりを知っているみんなが聞いたからいい話になっていたのに。真光誌ではその辺カットされてしまった。迷わず神様を信じて突き進み、問題を難なくクリアしましたって風になっていたよ。それまで真光誌の体験談を己の励みにしていたけど、月並祭と真光誌の落差にがっかりして白けた。真光誌の現実を知ったのね。

 それから、いつだったかリークされていたけど、自分の体験でなくても自分が体験したこととして人に話していいってお達しがあったそうだね。指示する方もする方だし、それにほいほい従う方も変だよ。ーー真光関係者集合(51)460

*>では、反対に、真光の業で病気が治らなかった場合、「奇跡現象が起きない場合」、霊や神の実在を体感させることはできない、ということですね。

 その場合は「組み手の曇りが深いから」「御霊の恨みが強いから」「まだ治る時期ではないから」「神鍛え、神試し」などなどの理由づけがされます。私も具合の悪いことが好転しない時、幹部や上の組み手に言われるまでもなくそう思い込みました。そう思う様に仕込まれますからね。

 書いているうちに思い出しました。ある組み手が月並祭で体験発表をしました。
 簡単に言えば「手かざしで病気が治った話」です。いい話だなーと思っていたのですが、その後、発表した組み手と仲良くなって「よかったですね」と言ったら、「ああ発表したけれどまだ治っていない。事実ではないこと話した」と悩んでいました。それならばどうしてあんな発表になったのかと尋ねる事ができませんでした。ーー真光関係者集合(51)464


ーー火の鳥Phoenix3000