世界本山建設〜『聖書物語』の利用
前回は岡田光玉(本名:岡田良一)が旧約聖書を光玉版聖書話にして説いた教えを紹介しました。今回は『
真光・212』の光玉の教え『ス座ご建立に全組み手一丸となって驀進せよ』で、新約聖書の話を利用したものを見てみましょう。ちょっと長くなりますが、ここに引用します。〔注1〕
◎聖書物語 (お祭りの話)
そこで、「聖書物語」これは生前イエスが話してくれた教えですが、何かのみ祭りの時に言われたのでしょう。これは、アンネ・デ・ヴリースさんの書いた作品にある聖書物語です。
「そのうちいつか、大きなお祭りがあるでしょう。まだ一度も祝われたことのないほどの、すばらしいお祭りです。
それが、いつあるかは、だれも知りません。
しかし、いつかあるということは確かです。
そのお祭りは世界中の人達のためのものです。」
それで、人類祭だということがわかります。
日本人のためとか、イスラエル人のためとか、あるいはエジプト人のためにというお祭りではない。それなら今各国にたくさんありますから、そういうお祭りではない。
「だれもみんな、そのお祭りをできるだけすばらしいものにするため、人類がみな力をお貸しすることができます。
主(いわゆる主神|スシン|様)は、天と地の王です。」
天と地を合わせ運営している方という意味です。
「世界中の王です」
五色人全人類の王様です。
これは、歴史上の事実から言いますと、日本のスメラ家、天皇家と申しあげています、そのご先祖様。何千万年か何億年か連綿としてつながっている天皇家、スメラ家といいます。それがシュメール族の先祖になります。
王様は人間ですから、世界人類の王様です。一番上の方です。日本の古代史ではそのとおりです。シュメール人です。
つまり、天照日大神|アマテルヒオホカミ|様の直系のご子孫で肉体を持った方々。それで世界の王に間違いない。
歴史的に言えば、イエスもやはり日本の太古史をそのまま説いています。
「ですから、主がまた現れたときには、世界中の人たちがお祝いをしなければなりません。
それがいつのことか、知っているのはただ神だけです。しかしいつかその日がくるということは確かです。主イエスが自分でそう言ったのですから。
主イエスが現れたら、その日はこの人たちにとって、うれしい日になるでしょう。(人類の大喜びの日になるときが来る)
しかし、ほかの人たちにとっては、そうはなりません。とても悲しい日になるでしょう。主イエスがそう言ったのです。」
と書いてあります。
みなさまで言うと、陽光子の人はうれしい日が来る。天意転換により、日(火)の神様の出現に対して、みなさまがみ祭りに集まり、あるいは地球上に初めて「世界総本山」を造ろうとする。そのみなさんの努力、すなわち、想念の現象化というものは、神様は必ず喜んでいらっしゃるに間違いがない。
そこで、これは明らかに人類祭です。日本人だけの祭りでもない。支那人だけの祭りでもない。韓国人だけの祭りでもない。エジプト人の祭りでもない。ザイールのための祭りでもない。五色人全人類そのものが一体になった人類祭。とイエスは言っています。ただし、その時にそのみ祭りに参加できるように、今から準備しておかなくてはならない。
そのみ祭りにうかうかしていると間に合わない人類になってしまうぞ。教団の言葉でいえば、「二十一聖紀文明造りへの最終の乗り合いバスに乗り遅れるぞ」と私が言っていることと同じことです。
「イエスも、すでに二千年前にそのことを言っています。神様のご経綸を知っておられた証拠がこういうところへ出てきます。
◆それで、人類祭だということがわかります/これは明らかに人類祭です/五色人全人類そのものが一体になった人類祭
「人類祭」と言えば、格好よく聞こえはしますが、真光が自分のところの祭りは『人類祭である』と言っているだけです。全世界で真光の祭りを「あれは人類祭である」と認めているわけではありません。一新興宗教の信者の集りの祭典に過ぎません。にもかかわらず、「『聖書物語』の中に、自分のところの祭りのことが予言されている。真光の祭りはすごいだろ」というわけです。
「人類」「全人類」「五色人」...光玉が好んで頻繁に使った言葉でもあります。なんとなく真光は世界的規模のものであるかのようなイメージが湧きます。しかし、光玉の教えをもっとよく見てみると、「人類発祥地、五色人人類の発祥地は日本」「五色人のうち黄色人種が一番上、黄色人種のうちでも日本人が一番上」といったような、根拠のない教えを説いています。 〔注2〕 結局現実世界とは遊離したことを光玉は説いているのです。
◆「主(いわゆる主神|スシン|様)は、天と地の王です。・・・・・・・・
五色人全人類の王様です。
ここでも「五色人」「全人類」と並べています。
新約聖書に出て来るイエスという人物を『主』『救い主』として崇めるのがキリスト教です。そのキリスト教の『聖書物語』で『主』と言えば、イエスのことです。それを光玉は『いわゆる主神|スシン|様』と勝手な解釈を挿入しているわけです。ではイエスが真光の主神なのかと言えば、そうではありません。つまり、辻褄の合わないことをここでも平気で光玉は言っているのです。
『御聖言』(p134)で、光玉の神は次のように言っています。〔注3〕
・・・・・モウシェも釈迦もイエスも人間なり。人間の方主体の信仰致し、致さしめあれば、主神|スガミ|に御無礼の世と変わりしなり。さりとて軽んずべからず。人間にして人間にあらざるなり。神なり。
イエス(モウシェ、釈迦も同様)は人間だと言ってみたり、いや、人間だが人間ではないぞ、神だ、と言ってみたりしています。けど、イエスは『主神』ではないのだから、『主神』つまり『真光の神』を差し置いてイエスを崇めるのは、真光が世に出た今、無礼だということです。
◆これは、歴史上の事実から言いますと、日本のスメラ家、天皇家と申しあげています、そのご先祖様。・・・・・ それがシュメール族の先祖になります。
光玉は、「天と地の王」「世界中の王」というのを真光色で「五色人類全人類の王」と言い換え、突然「天皇家の先祖」「シュメール族の先祖」と、日本の天皇とシュメール族とを持ち込んでいます。
光玉の天皇崇拝が窺える箇所の一つです。また、
『神の地上代行者』という自分勝手な権威で、自分の言うことが『歴史上の事実』であると断定しています。どこからか取り入れた「とんでも説」が、彼の頭の中で「歴史上の事実」になってしまっているのでしょう。光玉の教えには、そのような臆面もなく作られた『事実』が多く見られます。〔注4〕
『天と地の王』というのは『五色人全人類の王』で、『五色人全人類の王』とは天皇家の先祖のことで、何千万年か何億年か連綿としてつながっている天皇家 ...などという歴史上の事実などありません。竹内文書のような書物に書いてあるのかもしれませんが、そのような、偽書と断定されていると言ってもいいような書物の内容は歴史上の事実にはなりません。〔注5〕 逆に、そのような書物の内容を歴史上の事実であるとする光玉は、歪んだ観点を持ち、その観点で物事を説いていると言えます。
現実世界のことすらしっかりと認識せず、妄想的教えを説く者に、『神的・霊的世界の実相』を頼るということはどういうことであるか、真光信者は冷静に見直す必要があるのではないでしょうか。
また、ここで、「シュメール族の先祖」と言って、光玉ははるか遠方の地の民族と天皇家とを結び付けています。ウィキペディアによると、第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇呼称の古語「すめらみこと」を「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行した、とあります。
〔注6〕 妄想古代史に頼り、『言霊』と称して言葉遊びをする光玉は、やはり、『すめら=シュメル』といった俗説を取り入れています。
◆王様は人間ですから、世界人類の王様です。一番上の方です。日本の古代史ではそのとおりです
『王は人間だから、世界人類の王だ』というのは、うわ言みたいで、意味を成しません。そして、ここでも、光玉の抱く妄想的古代史が窺えます。『全人類の王』とは日本の天皇のことである、と直前に示唆していますから、日本の天皇は世界人類の天皇であるとの光玉の考えがここでも見られます。熱心な天皇崇拝者であった光玉は、日本の天皇はかつて世界の統治者であった、そして、世界の統治者に戻るべきだ、との思いを捨てられなかったようです。
◆歴史的に言えば、イエスもやはり日本の太古史をそのまま説いています
光玉の教える日本の太古史は、竹内文書という類いの、怪しいものから来ています。それをイエスがそのまま説いている、とはどこをどうひねったらそうなるのでしょうか。イエスを「主」「天と地の王」「世界中の王」と『聖書物語』で呼んでいるのに対し、光玉が「主とは主神(=真光の神)のことである」と勝手に割り込ませ、「世界中の王とは日本の天皇のことである」とこれまた勝手に割り込ませて、天皇を世界の統治者にしてしまっています。日本の幻想的(妄想的と言ってもよい)太古史と、イエスが説いたことと、どこでどのように一致するのか
明示することもなく、「日本の太古史をイエスもそのまま説いている」と結論を出す光玉は、彼自身妄想癖を持っているようです。
◆主イエスが現れたら、その日はこの人たちにとって、うれしい日になるでしょう。(人類の大喜びの日になるときが来る)
しかし、ほかの人たちにとっては、そうはなりません。とても悲しい日になるでしょう
「(人類の大喜びの日になるときが来る)」と光玉は勝手に挿入しています。
『聖書物語』がここで言っているのは、イエスを信じているキリスト教徒にとって、うれしい日になる、ということです。イエスを救い主であるとは受け入れていない非クリスチャンにとってはとても悲しい日になる、と言っているはずですが ...。自分達の信仰こそが唯一絶対の救いなのであるという、宗教(全部とは言わないまでも)の持つ、排他的信条が表れている箇所の一つでもあります。真光はイエスを唯一の救い主として信じることではありませんから、『他の人達』(=非クリスチャン)の中には真光信者も当然入るわけで、真光信者にとっても、とても悲しい日になる、ということになります。にもかかわらず、光玉は、こちらの方は完全に無視しています。
◆ みなさまで言うと、陽光子の人はうれしい日が来る
光玉は臆面もなく、「陽光子の人はうれしい日が来る」と真光信者(=陽光子、(神)組み手、等)にすり替えてしまっています。
真光信者にとって、その祭りに関して教えられた意義を信じて参加すれば「うれしい」と思うのは当然のことです。教団はそう信者に思わせることで、幻想の一種を売っているようなものです。それはどの宗教・宗派においても言えることなのでしょうけれど。
◆神様は必ず喜んでいらっしゃるに間違いがない
「神は喜んでいるぞ」と光玉は断定的に言わず、神の代弁者のはずなのに、『喜んでいるのに間違いがない』とやや間接的な言い回しをしています。自分と自分の神との間にクッションをおいて、この二者は同一人物ではない、との印象を与えたかったのでしょうか。
◆そのみ祭りにうかうかしていると間に合わない人類/二十一聖紀文明造りへの最終の乗り合いバスに乗り遅れる
「うかうかしていると間に合わない」とか「最終バスに乗り遅れるぞ」と言って、真光に引き入れたい相手を急かせる効果があり、また、すでに取り込まれた者には、自分は間に合ったんだと思わせるという効果もあります。「火の洗礼はもうすぐ」「もう間に合わない」と言って、光玉(及び彼に続く教団)が急かしたことも、今振り返ってみると、偽の警鐘乱打に過ぎなかったと言えます。たとえ近い将来、天変地異、たとえば万一大きな隕石が地球に衝突するとか、あちこちで一斉に火山の大爆発が起こるというようなことがあったとしても、真光の神や真光の教えとは何の関係もない、と今は思う事が出来ます。
◆イエスも、すでに二千年前にそのことを言っています。神様のご経綸を知っておられた証拠がこういうところへ出てきます
『聖書物語』に、「いつか世界中の人のための大きなお祭りがあるでしょう」とあるからといって、
光玉の説くところの神の経綸をイエスが知っていたという証拠であるとするのは変な飛躍です。『証拠』などと言って、あたかも確立され、反証できない事実であるかのように言うのも光玉の話法の一つです。〔注7〕
キリスト教の『聖書物語』にある話をハイジャックして、自分の物品を持ち込み、不調和で派手な色に塗り替えて、自分流に改造し、『最終の乗り合いバス』と前部に掲示し、「さあ、救われたければ早く乗れ」というわけです。
真光が、光玉の経歴詐称・経歴隠蔽から始まり、多くの嘘や虚を含んだ教え、妄想的教えで作られた虚構の世界であることに気付けば、
『二十一聖紀文明造り』などという大袈裟な言葉も、中味のない、イメージのための標語の一つに過ぎないことがわかるでしょう。『最終バス』の意味合いさえ、二十一世紀になっている今、失われてしまっています、というか、そんなものは最初から存在しなかったと言ったほうが適切でしょう。これも光玉が描いて見せた幻です。
そんな光玉を『人類の永遠の命の師』などと華々しい言葉で押し付けて来た光玉の神(真光の神)も、実に嘘っぽい神だと思いませんか。〔注8〕
さらに奇妙なことに、ここに光玉が引用した『聖書物語』の「祭り」には、祭りの場所については一言も触れていないことです。その『祭り』は豪華な大神殿で行われる、とか、その祭りが行われるのに、大神殿が必要である、とか全く言っていません。にもかかわらず、ス座建設に向かって真光信者を駆り立てるのに引用しています。光玉の歪んだ認識がこんなところにも顔を出していると言えないでしょうか。
〔注1〕
真光誌212号
(昭和55(1980)年5月号)、『ス座ご建立に全組み手一丸となって驀進せよ』(p18〜24)。引用部分はp20〜23。
〔注2〕[
人類発祥の地は日本] [五色人]の教えについては、これまでのポストの中に引用あり。
「真光の世界とは」 (2007/01)
「真光の世界とはー6:超太古日本ムー大陸」 (2007/06)
「光玉の説く日本と世界の歴史」(2008/08)。〔注7〕にも引用あり。
「光玉と『マンナの壷』−1」(2010/07)の〔注2〕。
〔注3〕『御聖言』の『神か人か』から。
〔注4〕例:
「光玉の説く日本と世界の歴史」(2008/08)
「超古代史が学問で裏付けられてきて、反論する余地はなくなりつつある」(2008/09)
「光玉と『マンナの壷』−1、2」(2010/07、2010/10)
「光玉曰く、『世界のメッカは伊勢』」(2011/01)
「真光の世界とは」 (2007/01)
〔注5〕ウィキペディアの竹内文書参照。http://ja.wikipedia.org/wiki/竹内文書
その内容の幾つかを挙げると、[イエス・キリストは十字架上で死なず(弟のイスキリが処刑された)、渡来した][釈迦をはじめ世界の大宗教教祖はすべて来日し、天皇に仕えた][世界には五色人が存在していた][ボストン、ニューヨーク等の地名は3000年以上前に世界に散らばった皇室の者たちの名前から来ている]等「とんでも類」に属することが記されている。
〔注6〕ウィキ
ペディア
「http://ja.wikipedia.org/wiki/シュメール」
〔注7〕〔注4〕に準じる。
〔注8〕
『御聖言』–昭和41年神組み手への啓示–p448:
汝等の師は師にして師に非ず。今や神のマコト現世|うつしよ|の神代行者として、人類永遠|とわ|の命の師なり。
ーーー火の鳥Phoenix3000
1 Comments:
I left SM 13 years ago and very often remember the Amatsu Norigoto Prayer. I really don't care who was the first to be inspired to write it. It is a very powerful and profound invocation.
Thanks for posting it.
Being a member of SM made me much more aware and cautious. I had to have this experience. I am never joying any religious group or sect. I now understand that if we are all one I only have to hear the God in me.
Blessings to all..
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