Sunday, March 30, 2008

諸宗教の役割と真光 (The role of religions and Mahikari)

To the English reader,

If you were a Mahikari member, you may have had a hope that Mahikari could bring about a unification of all the religions in the world, but perhaps ended up disillusioned, wondering what was wrong with Mahikari, or whether it was you who couldn't catch up with Mahikari's teachings and demands.

When I look back, I see that a lot of Mahikari's claims are not substantial, and very dubious, which makes me wonder why I ever did believe that Mahikari could bring salvation to mankind.

Sukyo Mahikari states in its 'Sukyo Mahikari 30-year chronicle' (p24), as follows;

There have never been religious sects and denominations such as Buddhism, Christianity, Shinto, Islam, and so on in the world of divine spirits. They are something that people created in later ages. Each of them should remove its barriers and be united as mankind. The very important role of religions is to serve the Origin God Himself.

I'll rephrase this part so that Mahikari's viewpoint will be seen clearly.

Mahikari is not a man-made religious sect or denomination, but it is the one God created. So, all religious sects and denominations, which are man-made, must take their barriers away, opening their gates to Mahikari, accepting it, uniting themselves under Mahikari and thus serve Mahikari's God, SuGod, who is the Origin God. This is a very grave role of religions.

Did Okada have an ambitious dream of conquering the world with his Mahikari and his God, Su God?

This article provides glimpses of what Okada said about other religions and religious leaders in general.

----Phoenix3000


崇教真光の次の記述を見て下さい。


  元来、神霊界には仏教、キリスト教、神道、回教等というような宗門宗派はなく、それらは、後世人間が作ったものであります。それぞれの垣根を取り払い、人類が一体化して、一番大元の神様にお仕えさせていただくのが宗教の大切な役割なのです。     ーー 『崇教真光30年史』p24


この表現を真光の観点がわかるように言い換えてみましょう。

<真光は人間が作ったところの宗門宗派ではない。神が作ったものである。人間が作ったものである諸々の宗門宗派は、それぞれの垣根を取払い、真光に門を開き、真光を受け入れ、真光の下に一体化し、一番大元の神である、真光の神、『スの神』に仕えよ。それが諸宗教の大切な役割である>となります。

「人類が今までの信仰から飛躍して『主神』に総神向きすべき天の時が到来しています。」(『崇教真光30年史』p26)との表現にも、<真光こそ全ての宗教を越えるものである、だから人類は、今までの信仰を脱して、真光の下に集まれ>という主張が窺えます。
  
では岡田光玉はどのように言ったのでしょうか。


  私の方では、宗門宗派などは、問題にしない、と申し上げることができます。...(略)...
  人知人造の宗門宗派という派生的なものでもなく、宗門宗派のための信者作りでもありません。  ーー『大聖主』p143


「宗門宗派など問題にしない」と聞くと、真光は宗門宗派に関係なく、誰でも受け入れる、ということで、一見大らかに聞こえます。しかし、「誰でも受け入れる」ということは信者獲得にも繋がっていることを見逃せません。それに、真光が「宗門宗派に関係なく誰でも受け入れる」と言っても、真光が「誰にでも受け入れられるようなものである」ということにはなりません。もし誰にでも納得がいき、受け入れられるようなものだったならば、これほどまでに真光が問題を起こし、批判を浴びることはなかったでしょうし、いろいろと暴露されることもなかったでしょう。教団はこれらを邪神、邪霊、霊障、逆法の世、等のせいにして,良心的に対処しませんが。

また、宗門宗派は「人知人造のものである」が、自分のところは「人知人造のものではない」とも言っていることになります。

では、真光はどのように出来たのか,と言えば、真光の主張では、むろん、神によって神の智で作られたものである、というものです。では、どうしてそう言えるのかということになると、真光を始めた岡田光玉がそう言ったからです。神より命じられて立教した、だから自分の教団は神が作ったのである、という主張は、あくまでも光玉が言ったことです。『神』が ー 『天地創造の神』でなくても、何らかの『神のようなもの』あるいは『霊』としても ー 光玉にそう言ったのかということになると、誰にも立証できません。光玉がそう言い、光玉に続く教団がそう言うから、『組み手』(信者)はそれを事実だと信じている、という図です。けれども、その神示の内容が現実の光玉の経歴にそぐわなかったり、その神示の言葉にも、神示が降りたとする時の環境にも、一貫性の欠如が見られるということは、常識的には、この人物の言葉は信用できないことになります。

「神より啓示を受け、真光を始めた」のではなく、正確には「神より啓示を受けたとして真光を始めた」のです。「真光は、他の宗門宗派と違い、人知人造ではなく、神によって神の智で作られたものである」と光玉(及び彼に続く教団)が主張しても、それを即事実であると信じるべきではないのです。ましてや、「自分は光玉が好きだから光玉の言うことを信じている」「信じる、信じないは自分の勝手だ」という信者がいたら、事実認識欠如の見本であると見なすのが賢明でしょう。

次の光玉の言葉を見て下さい。


  人力プラス神力で、天国人の集まりにしてしまう、すべての人を”健・和・富”の人へ導いていく,人類大峠越え人種を出来るだけ多くする、それが今、宗教者の超宗派的使命であるのです。宗教の垣根をとって、人類のための大同団結した協力で、我々の世救い、人救いの大神業に積極的なご理解をお願いしたいわけです。  ーー『崇教真光30年史』p94/ほぼ同じ文が『大聖主』p149にも見られる。


宗教者に対して講演をし、宗教家の『覚醒を迫った』との崇教真光の説明です。〔注1〕「ご理解を願いたい」というのは、穏健な「お願い」のように聞こえます。しかし、もちろん、その『理解』と『協力』というのは、宗教者が、自分たちの門戸を真光に開き、真光の業を実践し、真光の教義教理を習う、ということです。

次の部分は宗教者に対し、明らかに高飛車に出ています。


  どの宗教者も、この真光の業を利用して欲しい。宗教を超越して、人類は唯物文明から霊の文明へ切り換えをしなければならない、そういう時期にきてしまっているということです。これを私は「霊文明の曙」といっています。神の経綸が神代からどんどん進展をし、次の文明へはいるよう仕組まれてきているのです。それがわからないようでは、もう今後の宗教者とはいえません。  ーー『崇教真光30年史』p94/前半分は『大聖主』p148にもある。


「真光の業を利用してほしい」と言えば、一見気前よく響きますが、『真光の業』をただで提供しているわけではありません。「真光の業を利用する」ということは、真光に入信する、ということです。真光の研修を受講し〔注2〕、真光の教え主が調整するのだと説明される『御み霊』と呼ばれるペンダントを首にかけてもらって手をかざす、ということです。「受講御礼」はもちろんのこと、受講後は毎月の「霊線保持御礼」を真光教団に奉納することになります。この他にも、種々の項目の奉納金があることを知るようになります。手をかざしても、「真光の業」を受けても、その都度、御礼を出すことを勧められます。そのうちには、神(真光の神)に御礼を出さないのなら、神を利用していることになる、とか、神の光を盗んでいることになる、といった表現も耳にするようになるでしょう。

<<これは万物を創造した神の光ですから、どこにでもあり、誰にでも利用できるものです。太陽のように皆の頭上に輝くもので、空気のように私達を包んでいるものですから、真光にはいらなくとも、皆が恩恵に預かれるものです。どこの宗門宗派であっても、この神の光を信じて人類のために手をかざしましょう。神様に御礼したいという気持ちがあったら、どうぞ、ヤハエの神でも、観音でも、アラーの神でもいいですから、所属の宗教の神様に捧げてください。いずれも同じ天地創造の神様ですから>>と言っているわけではありません。光玉(真光の教え主)を通して霊線が繋がれ,手かざしができるようになる、というのが真光の主張です。つまり人類のための神の光だ、神の光は宇宙全般をあまねく照らす、と言いつつ、〔注3〕 勝手に専売特許の商品にしているのです。今の人間の魂が汚れてしまっているから、こうした「物質」の助けが必要なのである、と、真光流の理屈を付けていますが。

真光が主張するように『神の光』が出ているのかどうかさえ、大いに疑問である上に、そのような『霊線』が存在するのかどうか、さらに疑わしいのが現実なのですが、『神の光』を放射するのにこの『霊線』が必要だという概念を押し進めていけば、お金も教団に集まってくる仕組みになっています。

本物の宗教、人類教、宗教を超越、人類の幸せのため、世救い・人救い、宗教者の超宗派的使命、...といった表現を混ぜながら、究極的には諸宗教は真光を受け入れ、真光に迎合するべきである、という光玉の野望とも言える主張が、下記の引用からもはっきり汲み取れます。


  真の宗教家だったら法衣を捨てる時が来てるのですヨ。...(略)...神主さんも決起の時ですよ。 ...(略)...宗門という狭い門から出家しなければ「衆門」にはならない。それで、本物の神主大僧正宣教師なんていえますかね。  ーー『御対談集』p35
 
  全宗教家は「主(ス)」のお出ましお迎えの総準備にかからねば、もう許されない世が来てるんですよ。ーー『御対談集』p39

  オール宗教者の総反省転向と総決起の時代です。...(略)...もはや宗門宗派の時代ではない。一応横へ置いといて、全宗教家、いや、あらゆる指導者層に「真光の業時代」が来てます。ーー『御対談集』p42

  率直に言います。大神様・聖観音・ヤハエの大経綸の進展を逆にお邪魔してる先達が、実は今の多くの宗教家じゃないんですか。...(略)...宗門宗派なんて小さな四畳半式の宗門を超越、いや捨てちゃって、再出発したら今後の世即ち二十一聖紀の真の宗教者になれるのです。....ーー『御対談集』 p44
  
  各宗教者たる方々が、打って一丸となり、宇宙創造の神の仕組みの置き手を、しっかりと覚り、その仕組みの中の使命に生きて頂かなければならない新しい時がきたことを、警告しているわけです。
  民族とか、宗門を超越して、真意そのままの、初めて崇教時代という宗教のほんもの時代に入るのです。人類の幸せのための崇教として、あらゆる宗教は、再出発しなおさなければ、ならない天の時の到来なのです。それを、叫ぶわけです。  ーー『大聖主』p144

  もう今までのように、仏教のための仏教、信者をつくるためのキリスト教であってはならない。一体化した、人類のための宗教であらねばらならない、天の時である。
  ましてや、二十一世紀は、われわれ宗教家としては、人類のための人類教創造でなくてはなりません。お互いに、小さな垣根の中にとじこもり、相手をケナスことを捨てることから、かからなければなりません。ーー『大聖主』p229〔注4〕


真光の神は宇宙天地万物創造の主神(ぬしがみ)であり、万物万霊共通の大親神で、唯一絶対の最高神である(ありったけの大きな言葉、おおげさとも思える言葉の寄せ集めのようですが)と宣言しています。そして、このような神を戴いている真光こそが人類教である、というわけです。従って、あらゆる宗教は宗門を超越して,崇教である真光、人類教である真光を受け入れ、真光の下に一体化して、再出発しなければならない、ということです。

「お互いに小さな垣根の中に閉じこもっている」というのは、諸宗教のことに対して言っているのであって、「真光は初めから垣根などないんだから、垣根の中に閉じこもるなんて真光にはあてはまらない」ということを前提にして言っているのでしょう。しかし、現実には真光に入れば、真光の垣根の中、というより、真光の殻の中に閉じこもることになるのです。でも当人には自覚症状がありませんから、教団には大変御しやすくなります。

「相手をケナスことを捨てよ」というのも、他宗教に対しての要求であり、光玉自身に当てはめてはいないようです。上記引用部分の中にも見られるように、実は光玉は既成宗教をけなし、こきおろしています。「どの宗教も決して排撃しないのである」〔『寸教3』p15〕と一方で言いつつ、批難・攻撃しているのですから、二枚舌になり、光玉の言葉に実質的中味があるのか、問いかけるべきで、ここでも、常識的には光玉の言葉は信用に値しなくなります。

「ブレーキ宗教」「仮の教え」というのは真光に関わった方々にはおなじみですが、これらは他宗教に言及する光玉の表現です。『御対談集』から少し拾ってみましょう。他にも、既往三大宗教を「足踏み宗教」(p24)、「変態性正宗教」(p26)、形だけ残した「形骸(ナキガラ)宗教」(p33)、「偉大であるべき正宗教も観念遊戯かハッタリ、意地の張り合いとなり、袈裟や装束はきれいだが、中味はキタナクしかみえない」(p25)、「現代文化、宗教ともに、ごまかし」(p35)、「宗教も、新興も何々主義も、カビ臭くてしょうがない」とか、宗教家のことは、「石頭で無自覚無責任」(p45)「宗教家は総ザンゲ、総反省期が来ているにもかかわらず、まだ眠っている」(p30)、「百人おれば八十人、宗教家自体が霊障者の今の世ですから、霊障解消力が殆どない。いや、御自分達が霊障にかかりっ放しで、廃人になったり、中風になったり,喘息になる。...」(p31)、「宗教家自体、脳毒で、脳細胞がカチカチ」(p44)、 「仮面の宗教家」(p45)、「これでは神主は、神盗(カンヌス)」(p90)、「宗教家は神盗人揃い」(p91)などと、相当勝手なことを言ってけなしています。

次のような光玉の言葉もあります。


  ...(略)...初めて神の教え、正法を知る、なるほどと思う。今までの教えは大部分が逆法だから、ダマサレッ放しです。 ...(略)...今までの宗教が人間に迷いと疑いを持たせてしまったのだから。既成大宗教もこういうところでは、神には罪積んでます。だから仏滅や神裁きが来てしまうんです。 ....ーー『御対談集』p71

  今の仏教・キリスト教・神道は中風宗教になってしまった。否、むしろ精神分裂症人類にしてしまってみじめなもの。 ーー『御対談集』p12

  元来神界には宗派宗門は無いんですから。それ自体が大神様・大仏様に叛いています。宗派宗門という大化け物。あれは一体何なんですかね。現界的に見たって判るでしょう。空気も太陽も宗門宗派によって違うんですかネ、ハッハッハ。神界霊界真光のみ業は共通の最高の場です。もう脱皮しましょう。もう神主さん坊さん、失礼だが開眼の時が迫っている。そろそろ蝉も育って、カラから抜け出して飛ぶ本物の蝉にならなくちゃネ。歩踏み進め宗教ですネ。よっぽど宗教家自体、脳毒で、脳細胞がカチカチなんですね。それを自らクリーニングして神性化してもらわなければ人類が救われない。でなければ主神、天之御中主、天照主、聖観音、エホバ、アミダ様の御経綸の進展に合いません。気がついた大衆の方から救いの業を宣布して、宗教家を目覚めさせ救うほかは、人類は救われようはないことになってしまった。いや、今の宗教家は人類の仇と見られる時がくる。これも逆になってしまった。 ...ーー『御対談集』p44-45


宗教が人類の仇という見方もできないわけではないし、〔注5〕 宗門宗派に垣根がある、というのはわかりますが、『真光の業』が『共通の最高の場』となるものであるかどうか、ということになると、「待った!」をかけねばなりません。「真光の業」はどうやら光玉や教団が主張し、信者が思い込まされているようなものではない、という要素が次第に出て来ているからです。ハッキリ言って、実体が疑わしいものが共通の最高のものにはなり得ないでしょう。そのことがわかってくると、光玉の「ハッハッハ」という笑いも空ろに響いて来ませんか。



〔注1〕『崇教真光30年史』(1989年発行)p94ので記述 ーー 昭和四十二年、京都、聖ビルにおいて救い主様は、「既成宗教力復活の妙法」と題して,宗教者に対してご講演、宗教家の覚醒を迫られました。
    『大聖主』(1983年発行)p141での記述 ーー 昭和四十二年二月十九日、京都の聖ビルで、京阪地区の宗教人、各界の著名人に対し、師は四時間にわたって、教団の性格と、崇教論を講話された。 ...(略)...演題は「霊文明の曙」となっている。
    
  さて、これは同じ講演会のことを言っているのでしょうか。それとも同じ年、同じ場所で、2回の講演を行った、ということでしょうか。『30年史』の年表をみると、昭和42年には、2月19日「宗教者に対して講演(京都)」というのが一カ所あるだけです。つまり、講演会は一回だけです。同じ講演会のことでありながら、違った演題を二つ出している、というのも変な話です。正題・副題の関係が示唆されているわけでもありません。こんなところにも、真光(崇教真光)は事実を正確に示そうとはしない例が見られます。

〔注2〕「研修受講」というと、「入信」を意識せずに入信してしまうことになります。「信じなくてもいいんですよ」と言われ、安心して初級研修を受講するかもしれません。しかし、研修を受講し、「御み霊」をかけられ,「さあ、やってごらんなさい」と言われて、手をかざすこと自体が、たとえ自分では疑っているつもりであっても、真光を受け入れてしまうことになります。

〔注3〕御親元主真光大御神様は、宇宙全般に神の真光をあまねく照らしておられます。ーー『崇教真光30年史』p26

〔注4〕1973年、ヨーロッパを訪問の際、光玉はローマ法王に会見しました。パウロ六世はほんの短時間、光玉に会見し、あとはピネトリー枢機卿が光玉の相手をしました。枢機卿との話の中でこのように述べた、と光玉が言っています。 

〔注5〕無神論者として知られる、イギリスの学者、リチャード・ドーキンスは、その著書『神は妄想である』の中でアメリカの物理学者で、ノーベル賞受賞者である、スティーヴン・ワインバーグの「宗教があろうとなかろうと、善い人は善い行いをし、悪い人は悪い行いをする。しかし、宗教によって、善い人も悪い行いをする。」との言葉を引用しています。また、ドーキンスは「宗教は無害なナンセンスではなく、有害なナンセンス」と述べたとのことです。      (http://milkcrown.org/blog/archives/2007/09/delusion.html)
「真光は宗教ではない、崇教です。」などと言って、逃れたつもりになる真光信者もいるかもしれません。しかし、真光が、自分達は別格であるとの妄想をいだいても、所詮宗教の中に含まれるのが現実です。「有害なナンセンス」に一役買っているとも言えるのではないでしょうか。


ーー火の鳥Phoenix3000