Saturday, May 03, 2008

宗教と真光の神 (Religions and Mahikari God)

To the English reader,

I'd like to ask you a question about "Go-seigen", if you were a Mahikari member.

Did you believe Go-seigen was the book of the words of Creator God?
Or did you assume it was, because everybody around in the cult seemed to believe it was?

Mahikari followers are made to believe "Go-seigen" is the word of God, but once you are out of Mahikari, it doesn't sound like holy words ("seigen" = "holy words") at all. Using an old-fashioned style, it has some parts which sound grave, yet, it has a lot of twisted expressions and awful words. As a whole, it is by no means written in a lucid, lofty or straight-forward manner. What Mahikari God says is full of ideological and negative things towards the modern era and the people living in it. Okada claims, of course, that these "holy" words are not meaningless ideology [Jp10, Preface]. He may have seen that they sounded like "meaningless ideology" and tried to discourage people from thinking so. If one regards them as the precious words of God telling "divine truth", it will mess up one's perceptions of the real world and ones ways of thinking.

In the Japanese discussion sites, I have seen statements like - "Go-seigen is full of nonsense", " it doesn't sound like God's words at all", "Go-seigen-shu" (the collection of holy words) is "Go-mohgen-shu" (the collection of delusions) etc. It is not easy to gather information on one theme from Go-seigen, but I've picked out some parts which are related to religion from among the words of Mahikari God, who said, according to Okada, "Call me Su-God, and make mankind call me so from now on."

----Phoenix3000


自分をスの神と呼べ、また今後の人類にスの神と呼ばせよ、と言った真光の神、すなわち光玉の『神』は、宗教のことをどのように言ったのでしょうか。『御聖言』(昭和48年発行第三版)を見ることにしましょう。

真光の信者(組み手)は『御聖言』が神の言葉であると信じ込まされているわけですが、端から見たら、「聖言」と言っても「聖なる言葉」らしくないのが『御聖言』です。一見古めかしい文体で、重々しいかのように響く箇所もありますが、ひねったような言い回しやひどい言葉も多く、文章は決して清明正直ではなく、格調が高いわけでもありません。内容も、現代とその中に生きる人々をあらゆる面でけなしていて、ネガティブで観念的な言葉が実に頻繁に出て来ます。「空疎な観念論ではない」と光玉は『序』で断ってはいますが(p10)、そう言われることを予想して、牽制しようとしたのでしょうか。このようなものを『神理』であると有り難がって読んでいたら、物事の認識に歪みが生じて来ても当然でしょう。

「わけのわからない『御聖言』」「とても神様の言葉だとは思えない」「『御聖言集』は『御妄言集』だ」といった見解をネットで見かけました。そのような『御聖言』ですが、宗教に関して、ある程度拾ってみました。他にも見つけた箇所があったら、付け加えてみて下さい。


モーゼ、イエス、釈尊等をこの世に使いとして出したのは自分である、諸々のことを言わせたのは自分である、と光玉の神は名乗り出ています。

 〔例〕ー《釈迦(ゴータマ)、イエスなど使いに出して、神正法|かみせいほう|の世を予告せしめ、毒気消除の世の来たるべきを予告しおかせたるも、 》p105−6

     《釈迦(ゴータマ)やイエスに仏滅の世、神裁きの世、末法末世や世の終末近み来る等|など|申させても、かえりみんともせず、 》 p248

     《釈迦やイエスには、承知せしめありしも、》p252 

     《ヨモツの国にはモウシェ、釈迦、イエス等々出|いだ|して、》p419


しかし、「神の道と言い、経文|きょうもん|、バイブルなどなど各々そのカケラを語らしめしのみ。」(p24)とのことです。そのように「カケラしか語っていない」宗教は、「仮の信心信仰」であり、「仮の教え」であり、「脇役」である、としています。


 《人間に一時|ひととき|作ることを許せし「仮の文化」「仮の信心信仰」(宗教丈でなく、思想も主義も神は一切仮信心のものと見給う)》p232
 
 《本来仮の教えと申せし宗教》p250

 《宗教も科学も政治も教育も、諸神|もろがみ|も諸々の仏もその一点に芯集めに(集中さすこと)脇役としては大事でありしことさとれよ。》p256


そしてこれら宗教の役割とはー


 《汝に教えし「ブレーキ宗教」時代》p258

 《本来仮の教えと申せし宗教に宗門宗派を許せしは、何処までも、仮の世の地倉|ちくら|(物質文化)開きの役果たさす下々の神々と人間に欲心強めしめる為のス神の方便にてありしのみ。》p250

 《本来信仰は神向|しんこう|への方便として許したるを》p242−3

 《信仰と宗教とによって、遂に総て人類が神代の人類神向|しんこう|にてありし姿(惟神|かんながら|と申すもそれよ)、相|すがた|を永久|とわ|に何処|いずこ|かに持続せしめん為なりしを》p242

 《神向き信心こそが信仰の本然|ほんねん|の相|すがた|にて超古神代|ちょうこかみよ|の姿よ。》p235


「神代の人類神向にてありし姿」「超古神代の姿」と言っても、実際の人類の歴史にそのような姿があったわけではなく(あったという証拠はどこにもありません)、「超古代は神人、半神半人、超人だった」(p246)というイメージで、人の想像をくすぐっているだけです。

また、既成の宗教はブレーキ宗教であり、人類の行き過ぎにブレーキをかける役目だったと真光では説明されますが、250ページでは下々の神々と人間に物質開発の欲心を強める為の宗門宗派だったという部分があり、混乱しています。それに、人間の物質欲の行き過ぎにブレーキをかける役の宗教だったという概念ですが、宗教が人間の物質欲にブレーキをかけたという歴史上の諸々の逸話が明示されるわけではなく、ただただ漠然とした個人のイメージに訴えているだけです。<下々の神々と人間に物質開発の欲心を強める為の宗門宗派だった>というのも同じことで、歴史上の逸話が説明されるわけでもありません。こういうことも現実離れしていて、幻想か幻覚(妄想だと言う人々もいるでしょう)の世界に入っているのですが、ひとまず、光玉の神の言っていることを追ってみましょう。

こうして出現させた宗教や信仰は、この神の思い通りにはいかなかったことになります。


 《何の為の五大宗教なりや、思想なりしや、よくよく考え見よ。大変なる罪となりあることに気付かせよ。救いようなくなるべし。》p249

 《いつのまにか曲げ悪変化|へんげ|せしめ、人知にたより過ぎ申して、人間の為と申すより宗教屋の宗教宗門となり果て、信仰盛んになると共に、宗教が栄え行|ゆ|く道具と致し、大神大仏の経綸と、それを実現すべき地上代行者大衆が、神の子への昇華致す精進とみ意成就世界|こころなりならすよ|の建立は全くおき去りと致せし罪は誠に大にして深し。》p242

 《いつの間にか妙な所と時によってヒン曲げ申し、悪変化致させ、たより過ぎ、万生|ばんせい|生かされ智慧|ちえ|づけられある神仏|かみほとけ|の為の、又神の子,仏の子の為の宗門は、いつの間にか宗門宗派の為の信者造りとなり、人知信仰に化け申し、神の大仕組みは次第次第に盛んになるとは露程も知らず、本然|ほんねん|の相|すがた|をオボロ(ボーット)にさせ区々|ちりぢり|となれり。》p246−7

 《釈迦やイエスには、承知せしめありしも、どこにてどうもじり参らせしか、神主よ、仏法僧よ、キリスト者よと神いいつけもせざるに、弟子共勝手に誇称し、勝手な信心造りに進み、山のつきし崇教、神界の相|すがた|メチャ苦茶と致しあり。何の値打ちもなきなり。このままにては、宗教は人類の一体化には、大神より見れば百害ありて一利なしと申す外なし。無用の長物どころではなくなり来るべし。》p252

 《一方一面、人間神向きの心を持ちつづけさせ、あまり行|ゆ|き過ぎなきよう、いつにても元還|もとがえ|り出来るようとの神謀|かみはか|らい、方便にてありし本質に目醒めしむべし。そを思いがけざる誤りし方向|むき|へ向きへと信仰を誘|いざな|い深め参らせし人知主|じんちしゅ|、人間ご都合主そのものが、人間を怨み憎しみ持ちし万霊の誘|いざな|いの術に引っかかりし事に気付かせんと、神の使いあるコワシの役も色々と出|いだ|させある故早く気付く外なし。》p250−1

 《世救い世直し役どころか、いよよ無用の長物化も、混迷の世への導き役と相成る外なくなる悪き循環|めぐり|起こす丈なり。》p254


この神は人類の行き過ぎを心配し、こう許した、こうさせた、と、あれこれ人類に介入したにしては、先見の明がなさ過ぎます。それでも、自分の思い通りに行かなかったから、と、宗教や宗教者をけなし、相当こき下ろします。「醜教」「衆狂」といった当て字をし、「何の値打ちもない」「無用の長物どころか、百害あって一利無し」「鰹節信心、御都合信心、偽信心」「害虫」「盗人(信仰)」「キタナキ乞食(ウヨウヨ)」といった言葉を使っています。さらに『仏僧/物騒』、『神の使徒/死人(しと)』、『神主(かむぬし)/神盗(かむぬす)』、『坊主/茫主(ぼうず)』、『宣教師/何もセン教師』と、ひどい語呂合わせをしています。さらにこの神の思い通りにやらなかったことが大変な罪になる、と『罪』の概念さえ持ち込んでいます。


 《今世宗教にては神より見れば、「醜教|しゅうきょう|なり、衆狂|しゅうきょう|なり。」》p239   

 《神も仏も人間も一切の順序もみ力もみ役も判らず、いよよゴタゴタに致し、迷い惑いの世生ずべし。人間勝手に利用致せし宗教とか申すものにて世をゴチャゴチャに致し、逆法|ぎゃくのり|の世すら招き、大神大仏に叱らるる世となるべし。》p82−83    

 《神主、坊さん真には眠りありて、そのくせ時々チョコマカ大神大仏のお邪魔して気もつかず、気付きても神や大仏はお座|わ|すと思わず、装束|しょうぞく|とケサや位階丈は立派のもの多きも芝居人形にも及ばず。かくてはやがて亡びん。神々も釈迦(ゴータマ)もイエスも皆泣きあり。》p127−8

 《神をおだてて民には神に通じある如く見せかくるくせもの神主、坊主多き世なり。》p191

 《今迄の様|さま|にては、神をかつぎ出しある鰹節信心、御都合信心、神をだます偽|にせ|信心と却|かえ|って神思うべし。》p192

 《宗門宗派と申すもの、本来は全人一体化せしむべき役割の崇教を宗教となり下げ、 .(略). 宗門存続の為にのみ神仏|かみほとけ|を利用いたす、大神大仏より見れば盗人|ぬすっと|信仰のみ致すことに夢中と相成り》 p247

 《祀|まつ|りの役者、食う為に神仏|かみほとけ|信仰致し、宗門の為の法|のり|はゴショウ大事と致しあるが現代の宗門宗派と、大神大仏|おほかむおほぼとけ|にはとれるなり。》p248

 《「宗教阿片」とさえホザカせても未だ気づかず、この界にさえ、我と慢心、天狗の鼻ヒクヒクさせ、神仏|かみほとけ|盗人|ぬすっと|キタナキ乞食すら多くなり、神の大仕組みのお邪魔、知らず知らず致しある不忠不義のミチ歩みて、平然と化衣|けごろも|着あるがいまの宗教と見ゆるよ。 ..(略).. 神主、仏僧、神父等に目くら、ゼンソク、中風等々の業病、早世(早死|はやじに|)、不幸者、悪者すら多くなり》p252−3

 《神仏おみこしにカツギ出して、実は己|おのれ|らの生存の具に供えあるもの多きにあらずや。神仏|しんぶつ|の盗人|ぬすっと|乞食ウヨウヨが宗教時代と思われても、致し方なき哀れなる姿は神いつ迄も見ておれぬなり。害虫となりある故なり。》 p253−4

 《仏僧の世より物騒の世をつくり、神の使徒は死人|しと|をつくり行|ゆ|く化衣|けごろも|も仮面も脱ぎ捨つるなり。貴気知買|きのきちか|わせる役が気違い造り致しあるままにては、信仰気違いのみ多き此の世と致し、頑迷固陋|かたくな|なるものどもの対立分裂造りのみ充ち溢れしめて、宗教者とは神片腹いたきよ》。p255

 《宗教宗教と申すも、神主|かむぬし|、実は、神盗|かむぬす|と相成り、喰|く|いおるもの多く、坊主丸儲けとなって茫主|ぼうず|となり、宣教師は何もセン教師と相成るもの多くなりて、主|しゅ|を死なしめ万|よろず|宗教は、神より見れば大方|おおかた|が山なき宗教、中には醜教|しゅうきょう|の世とさえ化したるなり。》p321


宗教が信仰気違いを造っている、と光玉の神は言います。確かにそういう面があり、困ったものだと言えます。しかし、見逃してはならないのは、真光も同じだということです。真光も「真光気違い」を作り出しています。ネットにおける真光信者・擁護派の罵詈雑言、真光被害者掲示板等の荒らしなど、いい見本です。真光の神にとっては、「真光気違い」は同じ気違いでも、「神向気違い」だから問題にならず、大いに歓迎すべきことになるのでしょうか。

「神仏の盗人」との言い方についてですが、「真光はパクリだらけ」で、「神盗人は真光の方」との意見がネットにあります。脚注を参照願います。

光玉の神は、宗教・宗教者・宗教哲学が人類破滅への元凶だと言います。「人類の仇敵」というのは、簡単にいえば真光の教線拡大(布教)の邪魔になるからだ、と解釈してよいでしょう。


 《今より後はこの「根本|ねもと|」のことサトラせぬ限り、如何|いか|に立派らしき宗教や言挙|ことあ|げに鼻うごめかしあるとも、いずれは、夢か自慰の破滅の外|ほか|人類の行く手も宗門にも待つものはなきなり。》p257

 《いずれの日か、宗教哲学とは人知の鉄学(学|がく|は我苦|がく|)、人類を破滅へ導きし元凶と化し、人類の仇|あだ|と言わるるよう相成る時代近み参らす外なきが、今世の宗教と自称しあるものなり。》p257−8

 《神道、仏教、基教共々「狂い」あり。今世|いまよ|一度の震いも世狂いも元の一つここにもあり。汝|なれ|出来る限り正しやれよ。》p121

 《信仰も宗教も阿片どころか、遂に人類を破滅に導く元凶|げんきょう|と化し、やがては人類への仇敵|きゅうてき|とすら化さんことを恐れつつ神行|おこ|ないあるなり。》p244

 《宗教は無用の長物どころか、神人合作合一,人類一体化の仇|あだ|とさえ化させ》p243


宗教・宗教者は不要だ、亡びる、こわすほかない、と言い、崇教、神向き信仰(つまり真光)がそれにとってかわらなければならないのだ、と言います。


 《いやしくも宗教者|じゃ|は崇教者|じゃ|に復活する他なし。さもなくば、神には不要(いらぬ)ものとならん。人類にも不要(いらぬ)なり。.(略)..大神大仏より盗みて着せたる袈裟を脱ぎ捨つる事こそ大事なれ。》p254

 《本来信仰は神向|しんこう|への方便として許したるを、思いがけぬ方向|むき|に参らせし故、こわす役出しあり。又気付かざれば地の上|へ|「ゲヘナの火」の準備進むる外なし。》p242−3

 《かく相成|あいな|りては仕組みの神、元始|もとはじ|めし神と致しては、宗教をコワス外なからんこと判らざるや。》 p248

 《神の使いあるコワシの役も色々と出|いだ|させある故早く気付く外なし。
  然らずば地の上|え|「ゲヘナの火の海」といたす準備も進めしめあるなり。》p251

 《宗教コワシ屋出して苦しましむるも》p249

 《宗教の時代,言い換|か|うれば人類ブレーキ信仰、即ち宗教時代の神の仕組みの方は終末期が来てしまいあるなり。》p245

 《神は大愛にて辛抱心桁はずれに大にして、一時|ひととき|は御用せしものの流れ(子孫や伝統)哀れなれば、我慢致させあるも、結局亡ぶる外なかるべし。(仏滅神裁きの世などと警|いまし|められた因|もと|)》    p191

 《今より後|あと|の信心は神心信仰、更に申せば、神向き信仰ならざれば、かなわざる世と大切り換え致すなり。》p233

 《宗教又元の崇教へと進む外なきなり。》p241

 《宗教も本来の崇教へ復元せしむるなり。》p249

 《目がさめしものより出家せよ。出家せよ。此度|こたび|は宗門宗派より出家致して、崇教者に早くならしむる宿命が宗教へ循|めぐ|り参りし天の時なり。》p250

 《人間も宗教も地の上|へ|には不要のことと相成り、神のク災となるを以て嗅|くさ|き下屁成|ゲヘナ|の火へ投げ入れ、大掃除致す外なきことも判るならん。ゲヘナの火の謎は是|これ|なり。》p420


下記のような光玉の神の言い回しは、大戦時の天皇中心の軍国主義下の軍隊や全体主義下の軍隊を思わせませんか。


 《神主、神父、仏僧の化衣人造位階脱ぎ捨てよ。頑迷の目を、手を切り下ろせ。一列揃いし形にせよ。》p244

 《各も各も、頑迷の眼をエグリ取り、でこぼこしたる悪き臭|くさ|き歯並びの、迷いの口はつつましくもとざし、けがれし手をもぎ取る心にて、一列揃いし形の世に致すよう精進に精進すべし。》p256

 《信仰も最早末となり、人類総神向|しんこう|となる外なきなり。右向け右致すさせ参りしは導くものどもの大誤りにて、左向け左致さす世なりと申すなり。》p235


真光の神は、宗教を壊し、この世を真光一辺倒にするのだ、そういう世に切り替えるのだ、と言っていることが明らかです。これが「万教の元一つ」「万教帰一」「崇盟五道」という真光の標語の裏にある、光玉の『神』の考えです。五大宗教を始めとするすべての宗教を『総合帰一する』のだという説明と同じものだと言えるでしょうか。

付け加えておくと、この神は『ゲヘナの火』が大好きです。ゲヘナの火の準備を進めている、とか、人間も宗教も要らない、ゲヘナの火に投げ入れる、と言っています。そのくせ、自分は『大愛である』と謳っているのです。真光の神の『大愛』というのは、これも言葉だけのものではないでしょうか。

「真光は他宗教を否定していません、他宗教と協調していけるものです」などと真光信者が言うかもしれません。その場合には、光玉やその神の言葉を知らない、聞いていても(都合よく?)忘れている、しっかりと認識してない、といったところでしょう。信者が「人知」を使わず、従って疑問を持たずに、盲従してくれる,そして擁護までしてくれるのなら、教団にとって非常に都合がいいことです。諸宗教に対するこのような光玉やその神の言葉はあえて表には出さないでしょう。他の不都合なことと同様に、闇の中に葬りたいところかもしれません。

1959年の『最初の啓示』より50年近く経ったことを考えて下さい。光玉の神の意志が、現実世界において皆が認める形で現れているかどうか、半世紀の年月を経て振り返って見ることができるでしょう。ここで「皆」というのは世間の人々という意味です。真光の外の現実の世界が、光玉の神の言っていることとは関係なく存在し、時を刻んで進んでいて、真光信者だけが、「スの神(そして救い主)様のおっしゃった通りに世の中が進んでいる、間もなく真光の時代が来るのだ」と思っているのなら、これは真光信者だけが『神理を知らされ』『霊的に目覚めている』のでなく、真光という、歪みのある色メガネを通して現実世界の映像を受け取り、真光流思考回路で解釈しているからだと言えるのではないでしょうか。



〔注〕「神盗人は真光の方」つまり、パクリの問題に関する最近のネットでの意見の一部です。

*真光は、天啓を受けたオリジナルの宗教ではなく、誰が見ても世界救世教の流用と真の道、生長の家の教義をブレンドしたと分かる代物。 ..大本の分家の分家の末裔が真光 ...ーー真光関係者集合(50)66

*「人類初の最後の救いの業(真光の業)が、天地創造神より降ろされた!」と説いているが、実はパクリだらけの嘘とばれてしまう、痛い真光。 ーー(50)188

*茂吉のほうが光玉より早く、浄霊(手かざし)をしていたし、光玉も救世教和光布教会長として浄霊(手かざし)実践していた訳だし。 ーー(51)704

*救世教(メシア教)からパクっておいて、初級研修会で「人類初」と説くのは盗作画家と同じ。 ーー(51)705

*救世教だって大本からのパクリだけどね。 ーー(51)707

*つまり、真光は、パクリ教のパクリという事か。 ーー(51)710

*>万教帰一といいますからどんな宗教も真光に似ているところがあると思います。<
 本末転倒。真光が真光より古い宗教から部分部分をパクってきたんだろう?もうちょっと謙虚になれよ ーー(51)716,

*崇教真光は、(真光が)神から降ろされた業というが。
 実際は、「大本パクリが世界救世教、そのパクリが世界真光文明教団、その分派が崇教真光」
 正に、パクリの輪廻転生、パクリのデパート崇教と、指摘されている。 ーー(51)735

*この教団と真光系教団を要約すると-- ある幻聴を聞いた人がいて、真に受けて教団を立教。或いは、確信犯として他教団の教えをパクリ加工したということですね。(50)−75


ーー火の鳥Phoenix3000

3 Comments:

Anonymous Anonymous said...

Hi Anne,
I do find the Goseigen very strict, and I did feel very uneasy when I read it. Now compare it with 'Foundations of Paradise'. Can one really believe that the Goseigen is a revelation from God?

May 06, 2008  
Anonymous Butterfly said...

Anne

I owned both the old Goseigen and new Goseigen and quite honestly have never read either of them from cover to cover as I found them soooo boring and could never get my head around the unenlightened "teachings" - gobbledegook.

May 07, 2008  
Blogger Madman said...

You make of it what you make of it. A book is a book and can be helpful to you or not. We of the West brought to Mahikari our past religious beliefs, mostly formed as children. . . if some book published by people living in this world has to be the literal "Word of God" you'd better return to the Faith of your childhood; you'll be happier there than in any other group you find.

I didn't particularly enjoy Mr Kawasaki's translation of the Goseigen, it was more difficult than the new one; I so loved to experience his study classes though. The energy and excitement he brought to the teachings was contagious. I wonder why he left?

The Goseigan shu and Norigoto shu are as good for answering momentary questions or insecurities as The Bible, The Koran, The Veda or any other writing. You read and make of it what you make of it; if you believe the answer you receive applies to your question you will be satisfied (maybe). Isn't it amazing that you will almost always get an answer that applies? Dictionaries can be really good for that practice.

May 29, 2008  

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