真光 (Mahikari) の祖師が受け取ったとする『最初の啓示』について ー その真偽 <その六>
Here is the 6th part of phoenix3000's series of posts concerning Okada's "first revelation" and the origins of the Mahikari organization.
<その六>
良一(光玉)の話には真偽のほどはともかく、ストーリーとしては一応それなりの形がありました。
宗教に素人である(つまり前もって宗教的知識のない、宗教的に偏っていない)光玉に突然、『最初の啓示』が降りる。初めは困惑する。最初の手かざし(=犬への手かざし)が行われる。それから人に手をかざす。病気が治る。何がきっかけか不明であるが、額へのお浄めを始める。霊動が出る。最初どうやっていいのかわからず、騒動があり、あわてる。「お し ず ま り」が編み出される。霊動を憑依霊のなせるところだ、と解釈する。
万人に初めて許されたとする真光の業(=手かざし)ですが、瓜二つの「浄霊」がそれ以前に存在していました。誰でも救世教に入信すればこの手かざしをしていました。
良一はすでに救世教の幹部までやっており、宗教的知識のない、宗教的に偏っていない『宗教の素人』ではありませんでした。『光玉』という名も救世教の幹部時代にすでに使っていた名でした。
以上のことに加えて、昭和34年の『最初の啓示』に関して良一本人や真光の主張には、事実に基づいた話であれば起こり得ない矛盾が多過ぎます。オミタマが何時、どのように登場したのかも不明です。額へのお浄めのきっかけも事実に基づいたような話がありません。『終戦後間もなく、犬へお浄めした』話のように、『ふとしたことから』額へのお浄めを始めたのでしょうか。それとも、『額にお浄めをせよ』との神示が降りた、とするのでしょうか。『天津祈言』もいつの間にか登場しています。
これらに「おしずまり」が加わり、一セットとして、研修会にて与えられ、信者は『天地創造の神』(実際には「光玉の描くところの神」と言い換えるべきでしょう。)から与えられたものとして当然のことのように受け入れてしまい、それ以上は考えないように仕向けられるのです。
『曇り切った人間(=信者)は言われた通りのことをやればよいのだ、それ以上のことは考えるな、また、知らずともよい』のでしょうか。ただがむしゃらに「手をかざし」て、教団のために尽くせばそれでよいのでしょうか。
教団にとってはそれが一番理想的であることには間違いないでしょう。
光玉自身の、冒頭のような「光玉像」と違い、光玉は終戦後間もなく手かざしを始めた、という崇教真光の主張では、この時期すでに額へのお浄めを始めていたのでしょうか。
額へのお浄めはこの時すでに始めていて、「おしずまり」の言霊に気付き、『必死に言霊の研究も始めた』のでしょうか。
それとも額へのお浄めなしに、八坂東明の『最後の岩戸開き』のように『次々に奇跡が起こった』のでしょうか。
実は「おしずまり」に関してはその始まりについて光玉の記述があります。
ところが、当時の班長さん(私)は全く自信がない。最初のことをいうと、手をかざして霊が浮き出すとどうしていいものやらわからなくて、自分のほうがまっ青になってしまった。今の皆さんなら平然として、教わったとおり、『オシズマリー』と、こうやれるわけですが、私はその当時、言霊の研究などしていませんから、何といって鎮めたらいいのかわからなかったわけです。
ーー『30年史』73頁/ほぼ同じ文が『大聖主』83頁にもあります。
『大聖主』のほうでは『陽光子友乃会創設』の章にあります。両方とも「その当時」とは昭和34年立教の頃のこと、布教を開始した頃のことです。この時には霊動が起こってもまだ『何と言って鎮めたらいいのか、わからなかった』と言っています。つまり、光玉自身の話では、額へのお浄め開始は昭和34年の『最初の啓示』の後ということになります。ただしきっかけについては不明です。
また、「私はその当時、言霊の研究などしていませんから、何といって鎮めたらいいのかわからなかった」との表現は、昭和34年の『最初の啓示』で初めて『手をかざせ』と言われて、手かざしするようになった、という光玉自身の「光玉像」に便乗している表現です。宗教の素人であって、言霊の研究や神霊の研究などしていなかった、そんな自分に『最初の啓示』が降り、いつの間にか額への手かざしを始めており、浮霊現象にあって、あたふたとした、というものです。
崇教真光では、この引用部分の光玉の話は維持していくのでしょうか。つまり、光玉は戦後間もなく『ふとしたことから』犬に手かざしして救ったあと、神霊の世界の勉強も他宗教も研究したけど、言霊の研究は全くせず、額へのお浄めは全く思いつかず、『最初の手かざし』から10年以上経った、1959年の『最初の啓示』のあと、突然額へのお浄めを始めた、ということになるのでしょうか。
『最後の岩戸開き』によると光玉は終戦直後、手かざしを始め、奇跡が次々に起こり、びっくりして、必死で心霊科学から宗教や超心理学の研究に参入したそうです、とあることも思い出してください。(<その三>参照)
もしも崇教真光(八坂東明も含めて)が『終戦後間もなくの最初の手かざし』と『昭和34年の最初の啓示』との間に額へのお浄めを始めたのだとするのなら、『犬への手かざし(=最初の手かざし)』の話と同様に、冒頭の光玉自身の話の設定を完全に崩すことになります。また、『昭和34年の最初の啓示』後に「全く自信がなかった」が額へのお浄めを開始、自分で「オシズマリ」を見つけたとする光玉の上記引用の話も宙に浮いてしまいます。
最終的には、『最初の啓示』さえ表看板として押し通して、真光が始まったとすれば、他の光玉の話はどうとでもなる、というのが、崇教真光の態度なのでしょうか。
崇教真光が自らの出版物の文献にすら、どの程度忠実であるか、疑問ですが、一般の常識(真光の『常識』ではなく)からすると、『大聖主』83頁/『30年史』73頁の記述から、光玉が額へのお浄めを始めたのは、『最初の啓示』の前とするのは不可です。あとでやるようになった、とすると、崇教真光の主張するところの、『最初の啓示』以前の光玉の手かざしというのは、増々浄霊に近づく、というか、本来の浄霊そのもの、といっても過言ではないでしょう。
これまで集まった情報ー教団内では伏せられていますがーをもとに、現実の出来事をまとめてみると、次のようになります。もっと明確な事実があればお知らせください。
良一の胸椎カリエスが、世界救世教の浄霊(おひかりさま)で、奇跡的に完治。
戦後間もなく救世教に入信し、浄霊を習い、やってみると不思議な現象に出会った。
やがて、手かざしの実践の功績が認められ、幹部の職に就く。
書類上では「仲道」という名を使ったが、茂吉の「光の玉」の話になぞらえて、信者に自分のことを「光玉先生」と呼ばせる。
浄霊を続けているうちに、特に祝詞を唱えて、目をつむった相手の額に手をかざすと、「浮霊」しやすくなることに着目。
この現象は救世教内で知られ、禁じられていたが、良一はこの現象の虜になっていった。
『霊』への興味を注意されたが、救世教の教祖岡田茂吉の教えについて違う見解を度々述べるようになっていた良一は、『霊』に異常に興味を持ち続け、浮霊現象や霊査を追求し続けた。
浄霊中相手の女性信者の体を触り、その人が悲鳴をあげた事件が直接のきっかけとなり、幹部の職を解雇され、一般信者となった。
浮霊現象、霊動現象の虜になっていた良一は、やがて浮霊、霊動現象は憑依霊の実在を証明するものである、との設定で、他宗教からも、宗教外の所からでも自分の主張に合うもの、役に立つものを借用、取り入れ、言い換えもして、自分の主張する世界を膨らませていった。
救世教では危険だとして避けるよう指導されていた浮霊現象を逆に最大の呼び物にして、徹底して『霊障』を強調した、目に見えない世界を構築。
『光玉』の名と『手かざし』が天地創造の神より、特別に自分に与えられたものであると宣言(=『最初の啓示』)、浄霊を「真光の業」と言い換えて、全く新しいものであるかのように見せ、この業こそが人類に与えられた最後の救いの業で、自分を通して全人類に初めて許されるようになったのだ、と主張して(『30年史』31頁参照)、自分の業、自分の宗教として出発させた、ということだと思われます。
このためには自身の救世教所属の過去は邪魔になったので、そのことを正直に公にすることはしなかったのでしょう。(その三参照)
ここに、救世教での霊動に関しての情報を付け加えておきます。これは光玉の昭和34年の『最初の啓示』より十年も前の記録です。つまり、光玉は霊動が出て、どうしてよいかわからず、あたふたとした様子を記述していますが、光玉の教えはかなりが救世教の教えとそっくり、真光の業も浄霊とそっくり、救世教でも霊動現象が起こっている、おしずまり、とか、しずまって、という言葉が使われた、ということを考え合わせてみてください。
おまけに、崇教真光では、光玉は「熱心に神霊の研究をした、他宗教を勉強研究した」といっているわけですから、その中にこれほど似ている救世教がなかったなんて変だし、救世教での霊動現象を知らなかったというのも変です。
「全く自信のない班長さん」で、『その当時ー昭和34年『最初の啓示』が降りた時ーは、言霊の研究などしていないから、何と言って鎮めたらいいのか、わからなかった』という光玉の描写も作為的話になってきませんか。
121 真光は救世教のパクリ?
岡田茂吉全集講話篇第二巻四〇三頁
岡田茂吉氏と信者の質疑応答、昭和二四年八月一三日
(信者)
Q 最近ご浄霊中に患者が意識を失い、霊が浮かび出てくることがときどきございますが、
これにつき御教示をお願い申し上げます。
(岡田茂吉氏の答え)
A これは霊界の浄化が激しくなってきたので、霊がどうしても落ち着けないもんだから、
早く救ってもらおうとして出てくるんです。だから、これからはこんなのが増えてきますよ。
こういうのは前頭部を一番よくやってあげるんですね。
そしてあまり出る場合には、「お鎮まりお鎮まり」って言って手で抑える格好をすると、
その言葉の働きで割合に効果のあるもんですよ。当人が半意識で、霊が出そうでなかなか
出ない場合も「鎮まって鎮まって」とか「お鎮まり」とかやると、元へ戻るのがありますよ。
ーー 火の鳥phoenix3000
<その六>
良一(光玉)の話には真偽のほどはともかく、ストーリーとしては一応それなりの形がありました。
宗教に素人である(つまり前もって宗教的知識のない、宗教的に偏っていない)光玉に突然、『最初の啓示』が降りる。初めは困惑する。最初の手かざし(=犬への手かざし)が行われる。それから人に手をかざす。病気が治る。何がきっかけか不明であるが、額へのお浄めを始める。霊動が出る。最初どうやっていいのかわからず、騒動があり、あわてる。「お し ず ま り」が編み出される。霊動を憑依霊のなせるところだ、と解釈する。
万人に初めて許されたとする真光の業(=手かざし)ですが、瓜二つの「浄霊」がそれ以前に存在していました。誰でも救世教に入信すればこの手かざしをしていました。
良一はすでに救世教の幹部までやっており、宗教的知識のない、宗教的に偏っていない『宗教の素人』ではありませんでした。『光玉』という名も救世教の幹部時代にすでに使っていた名でした。
以上のことに加えて、昭和34年の『最初の啓示』に関して良一本人や真光の主張には、事実に基づいた話であれば起こり得ない矛盾が多過ぎます。オミタマが何時、どのように登場したのかも不明です。額へのお浄めのきっかけも事実に基づいたような話がありません。『終戦後間もなく、犬へお浄めした』話のように、『ふとしたことから』額へのお浄めを始めたのでしょうか。それとも、『額にお浄めをせよ』との神示が降りた、とするのでしょうか。『天津祈言』もいつの間にか登場しています。
これらに「おしずまり」が加わり、一セットとして、研修会にて与えられ、信者は『天地創造の神』(実際には「光玉の描くところの神」と言い換えるべきでしょう。)から与えられたものとして当然のことのように受け入れてしまい、それ以上は考えないように仕向けられるのです。
『曇り切った人間(=信者)は言われた通りのことをやればよいのだ、それ以上のことは考えるな、また、知らずともよい』のでしょうか。ただがむしゃらに「手をかざし」て、教団のために尽くせばそれでよいのでしょうか。
教団にとってはそれが一番理想的であることには間違いないでしょう。
光玉自身の、冒頭のような「光玉像」と違い、光玉は終戦後間もなく手かざしを始めた、という崇教真光の主張では、この時期すでに額へのお浄めを始めていたのでしょうか。
額へのお浄めはこの時すでに始めていて、「おしずまり」の言霊に気付き、『必死に言霊の研究も始めた』のでしょうか。
それとも額へのお浄めなしに、八坂東明の『最後の岩戸開き』のように『次々に奇跡が起こった』のでしょうか。
実は「おしずまり」に関してはその始まりについて光玉の記述があります。
ところが、当時の班長さん(私)は全く自信がない。最初のことをいうと、手をかざして霊が浮き出すとどうしていいものやらわからなくて、自分のほうがまっ青になってしまった。今の皆さんなら平然として、教わったとおり、『オシズマリー』と、こうやれるわけですが、私はその当時、言霊の研究などしていませんから、何といって鎮めたらいいのかわからなかったわけです。
ーー『30年史』73頁/ほぼ同じ文が『大聖主』83頁にもあります。
『大聖主』のほうでは『陽光子友乃会創設』の章にあります。両方とも「その当時」とは昭和34年立教の頃のこと、布教を開始した頃のことです。この時には霊動が起こってもまだ『何と言って鎮めたらいいのか、わからなかった』と言っています。つまり、光玉自身の話では、額へのお浄め開始は昭和34年の『最初の啓示』の後ということになります。ただしきっかけについては不明です。
また、「私はその当時、言霊の研究などしていませんから、何といって鎮めたらいいのかわからなかった」との表現は、昭和34年の『最初の啓示』で初めて『手をかざせ』と言われて、手かざしするようになった、という光玉自身の「光玉像」に便乗している表現です。宗教の素人であって、言霊の研究や神霊の研究などしていなかった、そんな自分に『最初の啓示』が降り、いつの間にか額への手かざしを始めており、浮霊現象にあって、あたふたとした、というものです。
崇教真光では、この引用部分の光玉の話は維持していくのでしょうか。つまり、光玉は戦後間もなく『ふとしたことから』犬に手かざしして救ったあと、神霊の世界の勉強も他宗教も研究したけど、言霊の研究は全くせず、額へのお浄めは全く思いつかず、『最初の手かざし』から10年以上経った、1959年の『最初の啓示』のあと、突然額へのお浄めを始めた、ということになるのでしょうか。
『最後の岩戸開き』によると光玉は終戦直後、手かざしを始め、奇跡が次々に起こり、びっくりして、必死で心霊科学から宗教や超心理学の研究に参入したそうです、とあることも思い出してください。(<その三>参照)
もしも崇教真光(八坂東明も含めて)が『終戦後間もなくの最初の手かざし』と『昭和34年の最初の啓示』との間に額へのお浄めを始めたのだとするのなら、『犬への手かざし(=最初の手かざし)』の話と同様に、冒頭の光玉自身の話の設定を完全に崩すことになります。また、『昭和34年の最初の啓示』後に「全く自信がなかった」が額へのお浄めを開始、自分で「オシズマリ」を見つけたとする光玉の上記引用の話も宙に浮いてしまいます。
最終的には、『最初の啓示』さえ表看板として押し通して、真光が始まったとすれば、他の光玉の話はどうとでもなる、というのが、崇教真光の態度なのでしょうか。
崇教真光が自らの出版物の文献にすら、どの程度忠実であるか、疑問ですが、一般の常識(真光の『常識』ではなく)からすると、『大聖主』83頁/『30年史』73頁の記述から、光玉が額へのお浄めを始めたのは、『最初の啓示』の前とするのは不可です。あとでやるようになった、とすると、崇教真光の主張するところの、『最初の啓示』以前の光玉の手かざしというのは、増々浄霊に近づく、というか、本来の浄霊そのもの、といっても過言ではないでしょう。
これまで集まった情報ー教団内では伏せられていますがーをもとに、現実の出来事をまとめてみると、次のようになります。もっと明確な事実があればお知らせください。
良一の胸椎カリエスが、世界救世教の浄霊(おひかりさま)で、奇跡的に完治。
戦後間もなく救世教に入信し、浄霊を習い、やってみると不思議な現象に出会った。
やがて、手かざしの実践の功績が認められ、幹部の職に就く。
書類上では「仲道」という名を使ったが、茂吉の「光の玉」の話になぞらえて、信者に自分のことを「光玉先生」と呼ばせる。
浄霊を続けているうちに、特に祝詞を唱えて、目をつむった相手の額に手をかざすと、「浮霊」しやすくなることに着目。
この現象は救世教内で知られ、禁じられていたが、良一はこの現象の虜になっていった。
『霊』への興味を注意されたが、救世教の教祖岡田茂吉の教えについて違う見解を度々述べるようになっていた良一は、『霊』に異常に興味を持ち続け、浮霊現象や霊査を追求し続けた。
浄霊中相手の女性信者の体を触り、その人が悲鳴をあげた事件が直接のきっかけとなり、幹部の職を解雇され、一般信者となった。
浮霊現象、霊動現象の虜になっていた良一は、やがて浮霊、霊動現象は憑依霊の実在を証明するものである、との設定で、他宗教からも、宗教外の所からでも自分の主張に合うもの、役に立つものを借用、取り入れ、言い換えもして、自分の主張する世界を膨らませていった。
救世教では危険だとして避けるよう指導されていた浮霊現象を逆に最大の呼び物にして、徹底して『霊障』を強調した、目に見えない世界を構築。
『光玉』の名と『手かざし』が天地創造の神より、特別に自分に与えられたものであると宣言(=『最初の啓示』)、浄霊を「真光の業」と言い換えて、全く新しいものであるかのように見せ、この業こそが人類に与えられた最後の救いの業で、自分を通して全人類に初めて許されるようになったのだ、と主張して(『30年史』31頁参照)、自分の業、自分の宗教として出発させた、ということだと思われます。
このためには自身の救世教所属の過去は邪魔になったので、そのことを正直に公にすることはしなかったのでしょう。(その三参照)
ここに、救世教での霊動に関しての情報を付け加えておきます。これは光玉の昭和34年の『最初の啓示』より十年も前の記録です。つまり、光玉は霊動が出て、どうしてよいかわからず、あたふたとした様子を記述していますが、光玉の教えはかなりが救世教の教えとそっくり、真光の業も浄霊とそっくり、救世教でも霊動現象が起こっている、おしずまり、とか、しずまって、という言葉が使われた、ということを考え合わせてみてください。
おまけに、崇教真光では、光玉は「熱心に神霊の研究をした、他宗教を勉強研究した」といっているわけですから、その中にこれほど似ている救世教がなかったなんて変だし、救世教での霊動現象を知らなかったというのも変です。
「全く自信のない班長さん」で、『その当時ー昭和34年『最初の啓示』が降りた時ーは、言霊の研究などしていないから、何と言って鎮めたらいいのか、わからなかった』という光玉の描写も作為的話になってきませんか。
121 真光は救世教のパクリ?
岡田茂吉全集講話篇第二巻四〇三頁
岡田茂吉氏と信者の質疑応答、昭和二四年八月一三日
(信者)
Q 最近ご浄霊中に患者が意識を失い、霊が浮かび出てくることがときどきございますが、
これにつき御教示をお願い申し上げます。
(岡田茂吉氏の答え)
A これは霊界の浄化が激しくなってきたので、霊がどうしても落ち着けないもんだから、
早く救ってもらおうとして出てくるんです。だから、これからはこんなのが増えてきますよ。
こういうのは前頭部を一番よくやってあげるんですね。
そしてあまり出る場合には、「お鎮まりお鎮まり」って言って手で抑える格好をすると、
その言葉の働きで割合に効果のあるもんですよ。当人が半意識で、霊が出そうでなかなか
出ない場合も「鎮まって鎮まって」とか「お鎮まり」とかやると、元へ戻るのがありますよ。
ーー 火の鳥phoenix3000