Wednesday, June 10, 2009

真光とスワミ・ラーマ <2>; ラーマの能力と『憑霊現象』 (Mahikari and Swami Rama <2>: Rama's abilities and the phenomenon of spirits' possessing)

What did Okada, who became acquainted with the yoga master, say about him? Read the quote below.

The yogi called Mr Rahmu I mentioned a short time ago - - -he, who practiced such tremendous gyo, is able to make himself disapear in front of your eyes, and is also able to lift his body up about one meter from the ground in the motionlessly sitting position. This is not a phenomenon of spirits' possessing. ----"Go-taidan-shu" p312

It is unclear whether Okada meant that the yogi had done these things in front of Okada's eyes, or the yogi said he could do them, or Okada had heard such things somewhere else, but, instead of saying "Some people say - - - -" , he described those things as being definite facts, associating them with the yogi he knew.

He didn't say to the interviewer, for example, "Mr Rahmu made himself disappear in front of my eyes," or "He lifted his body up about one meter from the ground in the sitting position." It is also probably too unrealistic to assume those things were performed without any tricks. Therefore the first possibility that the yogi performed them in front of Okada's eyes can probably be eliminated. However, it wouldn't be surprising if Okada had, without consciously realizing it, come to think in his own mind that the yogi had actually performed those things in front of him. In any case, the problem is, Okada was talking about those things as being definite facts.

The above English text is just a small part of the Japanese post below. I hope you will see the whole English version soon.

----Phoenix3000


ラーマと知り合いになった光玉は、彼に関してどんなことを言ったのでしょうか。次の引用部分を見て下さい。

    さっき云ったヨガのラームさんあたりになると、あれだけの行をした人ですから、見て居る前で自分の身体を消しちゃうとか、じっと坐ったまま三尺くらい身体が地面から上がっちゃうというようなことまでできる。これは憑霊現象じゃない。    ーー『御対談集』p312、昭和49年2月、対談者;本山博(文学博士)〔注1〕

見て居る前で自分の身体を消す、じっと坐ったまま三尺くらい身体が地面から上がる、というようなことがラーマにはできる、と言っていますが、これはラーマが光玉の目の前でやって見せたということか、それとも、出来るとラーマが光玉に言ったのか、それとも光玉がどこかで聞いたことを「---だそうだ」と言わずに、紛れもない事実であるとして扱い、実際に知っているヨガ行者と結び付けて述べているのか、定かではありません。

ただ、「ラーマさんは私の見ている前で、自分の身体を消しちゃった」「坐ったまま三尺くらい身体が地面から上がっちゃった」と、光玉は対談者に向かって言ってはいませんし、これらを仕掛けなしでやって見せるというのも非現実的でしょう。従って、ラーマが光玉の目の前でやって見せたとする可能性は除外してよいでしょう。もっとも、光玉の頭の中ではいつの間にかラーマがやって見せたことになってしまっていたとしても、不思議ではありませんが。いずれにせよ、光玉がこれらの能力を確かな事実として扱っていることが問題です。

上記引用部分の直後に光玉は次のように言っていますが、これも実は問題になります。

   ところが、憑霊でそういうことができる人がある。例えば烏天狗の霊のついた人は、あぐらをかいたまま羽ばたいて座敷の中を飛びますよ。われわれはよくそういう経験にぶつかる。 ーー『御対談集』p312

<あぐらをかいたまま羽ばたいて座敷の中を飛ぶ>とは漫画やアニメの世界のような場面ですが、光玉はまるで日常茶飯事であるかの如く話しています。「われわれはよくそういう経験にぶつかる」とも言っています。真光信者ならば、これは『お浄め』中にーー特に『お額』中にーー起こる『浮霊現象』として認識するでしょう。

しかし、こんな現象は、『組み手』時代には見たことがありませんでした。見たという組み手に会ったこともありませんでした。「天狗の霊が憑いていると、足を組んで坐ったまま、浮くんだって!」「蛇の霊が憑いていると、スルスルと柱を登るんだって!」というのは『組み手』時代の初期の頃に聞いたことがありました。不思議なこともあるものだと思わせるのが目的だったのでしょう。要するに話だけだった、ということです。坐った人が宙に浮いている写真を見せられたことはありましたが、合成写真の類いではないと鑑定されたものでは当然ありませんでした。

思い返してみると、このような話や写真を信者は簡単に信じてしまう傾向にありました。<光玉は『神理』を言っているのだ>との大前提があって、物事が光玉の言っていることに断片的にでも合うように見えれば、<光玉の言っていることは本当だ/正しい>との結論にいつも行き着く短絡的思考パターンが出来ていました。

スワミ・ラーマに関する、次の二つの話は私も聞いたことがあります。
 
「水銀とスワミ・ラーマ」
 
   昔、光玉師の話の中に水銀に関するものならあったよ。
   正確な文は書けないけど趣旨として、
   「ヨガ聖者のスワミ・ラーマ氏は体が清まっているので水銀を飲んでも
   15分程で体の外に排出してしまう。私はまだまだだ」
   みたいなものだった。

   敢えて解説すれば
   手かざしで毒を無毒化するどころか(ヨガの?)修行で清まって毒を
   受け入れずに排出する体になっている人の事が語られ、
   光玉師も(お浄めで?)それを目指すような話。    ーー真光のぶっ飛び教義ー真光被害者の会;66 
 
「良い匂いとスワミ・ラーマ」

   批判ネタではないのだけれど、スワミ・ラーマ氏でまた思い出したなあ。
   こんな内容だ。

   「スワミ・ラーマ氏は空気中(宇宙?)に散らばっている良い匂いの下(?)を
   自分の周辺(顔の周りや鼻先?)に集める事ができる。私(光玉)もやってみて、
   ラーマ氏ほどではないができた。娘(恵珠)に『お父さま、良い匂いがします』と言われた」とかいうんだ。
   ーー真光のぶっ飛び教義ー真光被害者の会;72 (原文のまま)

瞬間移動のように姿を消す、坐ったまま重力に反して体を浮かす、との『能力』に加えて、『水銀を飲んでも体外に排出できる』『宇宙の良い匂いの素を集めることができる』と、さらにもう二つの『能力』が、ラーマの『能力』リストに加わります。

もちろん、光玉に、人の見て居る前で自分の身体を消すことが出来たわけでもないし、じっと坐ったまま三尺くらい身体が地面から上がることが出来たわけでもないし、水銀を飲んでも体の外に排出してしまうことが出来たわけでもありません。このことははっきりとさせておく必要があります。

「良い匂い」を集めることは少し出来た、と言っています。恵珠のコメントを絡ませて、あたかもそこにいた第三者も認めたかのようです。けど、本当に出来たのでしょうか。それとも、自分がやってみたら(というより、自分がやってみたからこそ)、すこしは成功したように思えた(つまり気のせい)というだけのことでしょうか。光玉に追従する恵珠が光玉を喜ばすようなことを言うのは当たり前で、第三者的観点から「そのような匂いなどいたしません。お父さまの気のせいですよ」とは言わなかったでしょう。

或いは、この話は光玉の作り話なのかもしれません。ラーマから、あるいはどこからか聞いたことがヒントになって作った話なのかもしれません。

これらの「水銀」の話と「良い匂い」の話に対する意見がネットにありました。

「水銀」の話 ー

   光玉がまだまだなら、組み手なんてまだまだまだまだまだまだ ...エンドレス。
   一生かかっても、解毒するなんてムリってことじゃない?
   
   んじゃ、結局は真光よりヨガのほうがマシ ...っていう意味ですね。(笑)  
     ーー真光のぶっ飛び教義ー真光被害者の会;67?

「良い匂い」の話 ー

   スワミ・ラーマの匂いも、光玉の匂いも、
   実際に嗅いだことがないから分からないし、
   そんな話はいくらでも作れ(パクレ)ます。

   それに・・・真光教団からいい匂いは絶対にしない。うさん臭いだけ。  

   それから、スワミ・ラーマの修行のほうが高度なら
   「真光なんて大したことない」と言っているようなもの。アホちゃうか?光玉はん。   
     ーー 真光のぶっ飛び教義ー真光被害者の会;77

ラーマの『凄い能力』のことを紛れもない事実として光玉は扱っているわけですが、光玉がそれらを出来たのではありません。(「良い匂い」は少し出来たとの光玉の主張ですが。)これでは確かに真光を始めた光玉よりヨガ行者の方が『能力』は勝ることになります。それに『手かざし』がそのような能力を可能にするわけでもありません。光玉の話ではなんとなくそのような幻想に誘われそうですが、現実を見る必要があります。

憑霊現象として足を組んだまま人が宙に浮いたり、柱をスルスルと登ったり、という話があっても、話だけです。『お浄め』中に、受光者が坐ったままふわりと宙に浮いたり、施光者の目の前で受光者がその身体をかき消す(逃げたのではなく)などという現象が起こるわけでもないし、水銀に『お浄め』したら無害になって、飲んでも平気だったという体験者がいるわけでもありませんし、『霊界お浄め』すると、良い匂いがあたりに漂うのが誰にでもわかる、というわけでもありません。ヨガの行者にはそれらが出来る、というのであれば、「真光よりヨガの方がマシ」「真光なんて大したことない」と言っているようなもの、との見解も成立します。ただし、この見解は、真光の世界の中に閉じこもって、その世界を作った光玉を『救い主』として崇めていては出て来ない見解でしょう。

次の見解も参考になるでしょう。

    当時はヨガをやっている人間は神秘的で高貴で不思議なことができる行者っていう位置づけだったのかな。そしてスワミ・ラーマ氏はヨガ「聖者」っていう触れ込みだったので、そんなラーマ氏と交流がある光玉師も同様に高貴と印象付けをしたかった?  ーー真光のぶっ飛び教義ー真光被害者の会;72

大いにありそうです。相沢氏に関しても、彼と交流のある自分は考古学に通じている、という印象を光玉は作り出したかったようです。そして、その延長上に、妄想とも言える自分勝手な教えを披露しました。 〔注 2〕 ヨガ『聖者』を引き合いに出し、その人物と交流のある自分は「高貴」である、「神秘的」である、との印象付けをしたかったということは充分考えられます。

前回のポストで、行をやった坊さんや神主さんは行場にいた何十匹という霊にかかられる、座禅を組んだり観法をやったり、精神統一すると雑霊が(沢山)かかっちゃう、と言って、光玉は『行』に対して否定的イメージを強く押し出していました。次の引用部分もそうです。

    行者なんかにキツネをよく使うのがいるんですよ。正直に云うと・・・。  ーー『御対談集』p301

    修行をした人ほどいろんな霊がかかってくる。だから行者は皆いい死に方をしない。霊能者ほどいい死に方をしないのはそこなんです。  ーー『御対談集』p309

    昔のように瞑想だの何だのという行をするのはかえって害があるので、われわれのほうとしては御免こうむる。そういうことをやってきた人ほど直しにくいのです。例えば御嶽の行者だとか、十何カ所の行を積んできたとかいう人ほどひどい霊障を受けているという事実が沢山ある。....ーー『御対談集』p311

「・・・という事実が沢山ある」という光玉の言い回しに、信者なら「ああ、これは事実なんだ」と簡単に納得してしまいそうですが、彼のこのような表現は実に当てにならないことは以前のポストでも話題にしました。 〔注3〕

「行をやった坊さんや神主」に対して、憑霊、霊障、キツネの霊、行者の死に様、とかを絡めて、彼らの霊能力は有害で、陰湿なもの、好ましくないもの、という負のイメージを押し出しています。ヨガの行だって、<瞑想だの何だのという行>の中に当然入るはずなのに、ヨガの行者に対してはーー「ラーマさんあたりになると」とは言ってますがーー『凄い能力』をもっているが、これは『憑霊現象』ではない、としているわけです。「その根拠は?」と言えば何もありません。ただ光玉がそう断定しているだけです。

ヨガをやっている人間は、ヒマラヤの清浄で神秘的な大自然の中で修行をし、神秘的で、高貴で、不思議なことができるというイメージはあったと思います。私も、漠然とそんなイメージは持っていました。『聖者』という呼び名に惹かれるものを感じもしました。信者を引き寄せるために手品まがいのことをする、名の知られた『聖者』もいるなんて、数年前までは知りませんでした。

光玉もヨガ行者に対し、神秘的で高貴といったイメージを持っていたかもしれません。そこへ、背の高い、堂々とした体格の、ヨガ行者が訪ねて来て、知り合いになったわけです。

精力的で、堂々とした風貌のインド人のラーマは「お坊さんや神主」と一緒くたに出来なかったのかもしれません。それに、その『霊能力』は動物霊だ、憑依だ、霊障だ、有害だ、とさんざん足蹴にしている「お坊さんや神主」の中にラーマも入れたのでは、神秘的で、高貴で、超人的なことができる聖者、というイメージを利用出来なくなります。

ところで、オウム真理教は、名を変えて今も活動を行っているようです。『空中浮揚』は頻繁に起こる現象として扱っています。彼らに言わせれば、これはクンダリニーを覚醒させ、チャクラが開発された結果の『超能力・神通力』なのだそうです。〔注4〕

自分の説に実在感をもたせるために、このような現象は紛れもない事実であるとして、光玉は肯定したわけです。さて、光玉なら、これらも烏天狗の霊が憑依した現象である、と説明するのでしょうか。それともラーマの能力と同じように、「これは憑霊現象ではない」と言うのでしょうか。

前者なら、烏天狗の霊というのも数百という凄い数で存在し、実に簡単に人々に憑依することになりますし、また、「真光の業(=手かざし、お浄め)」とは無関係に、この、目を見張るような、『浮霊現象』が頻繁に起こっていることにもなります。別の言い方をすれば、『浮霊現象』と言われるものは、「真光の業」だけが起こす現象ではない、ということです。

後者ならば、この教団は、真光とは比べ物にならないほど『超能力』に優れ、『浄まった』人々の集まり、ということになるのですが.... 

もう一つ付け加えておきましょう。1969年、日本を離れて、アメリカへ行ったラーマは、翌年、メニンガー・ファウンデーションを訪れ、幾度かに渡って、実験室の中で、自分の能力のデモンストレーションを行いました。その内容は、片手の小指側と親指側とに体温差を作る実験、心臓を止める実験、脳波の測定、等でした。〔注5〕

実験者の見て居る前で自分の身体を消す、じっと坐ったまま三尺くらい身体が地面から上がる、水銀を飲む、良い匂いを出すーーこんなのは一つもありませんでした。自分の体を浮かすのでもなければ、鉛筆を宙に浮かすのでもなく、わずかな空気の流れにも反応して回転しそうな編み針を動かす実験でした。また、彼のほうが実験の主導権を握っていて、実験の内容・進行は彼の気分次第のところも多分にあったようです。


〔注 1〕『御対談集』昭和60<1985>年発行、本山博との対談は、p275〜p320、昭和49<1974>年2月の日付。本山博氏は、『御対談集』によると、「文学博士」となっているが、この対談の中で、霊の憑依現象も、心霊手術も信じていて、超心理学研究やヨガの研究に深い関心を持っていることがわかる。自分が考案したという機械(チャクラ診断器)のことも話している。
〔注2〕「相沢忠洋氏と真光の岡田光玉 <1> <2>」(2009/01、2009/03)
〔注3〕「真光の世界とはーその5」(2007/05)
   「真光の祖師、岡田光玉の説く日本と世界の歴史」(2008/08)
   「真光の祖師岡田光玉曰く、『超古代史が、学問で裏付けられてきて ...』」(2008/09)
   「真光の祖師岡田光玉と巨石器」(2008/10)
   「岡田光玉と旧石器時代」 (2008/12)
〔注4〕興味のある方はネットで検索のこと。
〔注5〕Menninger Foundation。その記録は次のウェブサイトで見ることができる。(英語) 
   http://www.scribd.com/doc/7039151/Swami-Rama-Beyond-Biofeedback 


ーー火の鳥Phoenix3000