真光とスワミ・ラーマ <6>; 光なるもの (Mahikari and Swami Rama < 6 > ; so-called light)
『真光とスワミ・ラーマ <4>』(2009/09)の『御対談集』の引用部分(p306ー307)に関してさらに続けます。
♦『光なるもの』
その光なるものがどこから出てくるのか、これがわからん、とラーマが言った、と聞くと、『光なるもの』が出ている、とラーマも認めた上で、<それがどこから出てくるのか、わからない>と言ったように聞こえますが、これも光玉を通して述べられていることを忘れてはなりません。
もちろん権威者そのものであるかのような、自信満々の光玉の話をラーマもそのまま信じた、とも考えられます。
光玉の言い出したこと-−−真光の研修を受けてオミタマを首にかけ手をかざせば『光』が出る、と教えられ、光が出ると信じて手をかざすのが真光信者(『組み手』)です。『受光者』に霊動と呼ばれる現象が起これば、真光の主張が証明されたと思ってしまいます。手をかざした結果、光が放射されて憑依霊に作用したためにこの現象が起こった、というわけです。
光玉や彼に続く教団がそう言う、自分もそれらしい体験をした、あるいは他の信者の体験談を聞いた、だから真光は本物である、と思い込んでいます。
しかしながら、『憑依』『霊障』はもとより、手をかざせば『光が出る』ということでさえ、実は証明されていません。
『神の光』は高次元の光なので、その域に達していない科学(現代唯物のみの「仮の科学」〔注1〕)ではキャッチ出来ないのである、との説明もありました。つまり、科学では証明できない、と言っていることになります。
<現代科学がそこまで行っていない>というのは実に誤魔化しが効く説明です。
科学的には証明出来ないのが当たり前のように聞こえるし、科学がもっと進歩すればやがて証明されるだろうとの期待を抱かせることが出来ます。同時に、その存在が証明されなくても、<科学がそこまで進歩していないからだ>と、いつまでも信じ続けさせることが出来るのです。
科学は所詮仮の科学で、神の科学ではない、と、科学への不信感、科学的考え方への不信感を植え付けています。真光は神の科学であるのだから、低い次元の科学では確認できないものである、故に検証できなくてかまわないのだ、教団がそういうのだから、そして自分もそう信じるから、光が出るというのは事実である、と信者が勝手に決めつけ、そう確信するよう誘導できます。
ということは、あると確認できないものを『ある』と断定して、信者に『ある』と思わせていることになります。『ある』と確認できないものを『ある』と断言しているということは、実際には無いものを『ある』と言い張っても、真光の世界ではそれで通る、ということにもなります。
手かざしを体験してもらえば、何かあると感じてもらえる、というのも真光信者が期待することです。実際『受光』すると、温かく感じたり、圧迫されるように感じたりする人も中にはいます。しかし、それだからと言って、手から『(神の)光が出ている』との真光の主張が正しいということにはなりません。
暗示による効果ということも大いに考えられます。それに真光以外のところでも、人は目に見えない何かを感じることもあれば、霊動現象と同じような現象が出ることもあります。これらは真光の研修やオミタマや手かざしやその教えとは無関係のものです。〔注2〕
真光信者の中には、光が出ているのが見えた、とか、霊視の利く人には見えるそうだ、と言って、確認されたかのように話す人もいました。
また一方では、神の光は普通は見えないようになっている、それなのに見えるのは霊障、という説明も聞いたことがあります。なにかちぐはぐです。でも、真光の世界では、ちぐはぐなことでも<奥の奥があるから>で済まされて、そこで信者の思考が停止してしまいます。
ネットで下記の書き込みがありました。
光が見えるのは霊障だそうです。
高次元な神の光は検証できないそうです。
つまり見えないのが当たり前で、見えたらマズイもの。
というか、その前に、
真光言わんとするところの光が、神の光かどうかも検証できないということです。
そんなものは信じるに値しませんね。
たとえそれが「人が本来備えている・ヒーリングパワー」であっても
検証できないことをいいことに、
真光が神の光と言い切っているだけだから。
それにしても真光の神の光は、
とことん癒されない光だということだけは、過去の歴史で証明されているね。
救われた人なんて、誰もいないもの。笑 ーー崇教真光を斬れ!ー真光被害者の会;154
「真光で救われたと思い込んでいる人」はいましたし、今でもそういう人はいることでしょう。しかし検証に耐え得る資料があるものは一件もないでしょう。それでも信者は<手から光が出る、それで人々が救われる>というのは事実である、と信じ込まされています。
真光信者は、信じることや思い込むことと、事実との区別が一般の人より遥かに曖昧で、混乱しています。現実の事実を聞いても、修正が効きません。もちろん修正したら、真光信仰(神向という字を当てはめて誤摩化しているが)は成り立たなくなります。だから、現実の事実を指摘されても、矛盾を指摘されても、真光はそれでも正しいと言い張り、真光の事実や矛盾を指摘する人々を口汚くけなして、かたくなに真光擁護・真光信奉を続けるのです。そんなところも真光の手かざしと教えに染められた結果でしょう。ネットでの擁護派・信奉者の書き込みを見てもわかります。
それにしても変だと思いませんか。真光の業は『神の光』で、霊を浄め、魂を浄める業であると言います。真光で霊魂が浄まれば、病気が治る、不幸に遭わない、人間が善化する、性格が良くなる、争いの心が無くなる、等聞こえの良い効用を光玉は並べました。〔注3〕 病気が治る、不幸に遭わない、等は簡単に言えば眉唾物ですが、それに加えて、真光擁護派・真光信奉者の罵詈雑言は、真光がおよそ「浄める」とか「浄まる」とか「善化」等には縁がないことを示していると言えませんか。<人と対立して言い合ってみたりすることが嫌いな性格に知らぬ間に変わる>(『御対談集』p182、〔注3〕参照)との光玉の弁も、現実からはほど遠い、中味を伴わない陳述だということになるでしょう。
ところで、ラーマは実際に『お浄め』を受けて、『光なるもの』を感じたのでしょうか。それとも自信満々の光玉に感心したのでしょうか。お互いに友人関係になったというわりには、どちらもお互いのやっていることや教えを取り入れたようには見えないのですが。
光玉は、真光の業はヨガの真髄と同じ、と示唆しつつ、ヨガの真髄は何か、ということになると的確な理解は示していないし、瞑想や行は否定しました。〔注4〕一方、ラーマは光玉の説く『霊障』『憑依』を受け入れて信じたようには見受けられません。
ラーマが光玉の言ったことをどのように受け止めたのか、直接知る資料となる彼の著書『Living with the Himalayan Masters』は残念ながら手元にありません。が、「真光とスワミ・ラーマ」(2009/04)」で紹介した、このヨガ行者の弟子のウェブサイトにそのヒントがあるかもしれません。その記事によると、『光』が出ている、と心で思い描く、想像するやり方、との説明がされています。つまり、現代風の言い方をすれば、イメージ療法に相当すると言えるでしょう。
〔注1〕<現代唯物のみの「仮の科学界」>との表現が『初級研修テキスト;第12|真の科学の暁へ』に見られる。
〔注2〕例—
*『真光とスワミ・ラーマ <4>』で紹介した、ラーマの健康に関する話のなかに、瞑想も勧めている箇所がある。じっとして目を瞑ると、体が動くが、これは単に体の乱れであると言う。
* 気功師 Chunyi Lin は その著書 『Born A Healer』で、自分の経験を述べている。両膝の痛みに苦しみ、色々と療法をやってみたが、改善せず、有名な気功師の講習会に参加。目を瞑ってしばらくすると体が前後左右に揺れ、やがて転がり回り、それからのどが変な音を立て、突然笑い出し ...等と自分の意思ではない動きや、また寒さ、熱さ、かゆさ等の感覚も体験。この講習会直後、両膝の痛みは消え、再び走ったり跳ねたり出来るようになったと言う。このような体の動きは気の動き、気の反応と説明されている。
〔注3〕例—
* 神性化を可能ならしめると不幸とか病気がついでに治ってしまうということです。そういう行き方で人類を善に切り換えてしまう。それが ”真光の業” なんです。 ーー『御対談集』p177
* 問答無用で人間の性格を直して、ついでに病気も治してしまうというのが、今日の ”真光の業” なのです.ーー『御対談集』p178
* 人間が無病化する状態になるとそれだけ悪霊、悪魔がいなくなったということが一つ。だから無病化します。悪魔がいなくなっただけこの人の性質が良くなるでしょ。言い換えますと心が非常に浄まっていく。
そうすると人の心というものは非常に穏やかになるのです。穏やか、すなわち平和になるわけです。したがって、怒るとか妬む、それから憎む、それから短気がなくなっていく。
それで非常にムードが明るい人間に変わってしまうんです。争うということが嫌になってくるわけです。人と対立して言い合ってみたりすることが嫌いな性格に知らぬ間に変わります。そうしようというのではなくて、知らぬ間に変わってきてしまう。 .... ーー『御対談集』 p181ー182
〔注4〕『真光とスワミ・ラーマ』(2009/04)『真光とスワミ・ラーマ <2>』(2009/06)参照。
ーー火の鳥Phoenix3000
♦『光なるもの』
その光なるものがどこから出てくるのか、これがわからん、とラーマが言った、と聞くと、『光なるもの』が出ている、とラーマも認めた上で、<それがどこから出てくるのか、わからない>と言ったように聞こえますが、これも光玉を通して述べられていることを忘れてはなりません。
もちろん権威者そのものであるかのような、自信満々の光玉の話をラーマもそのまま信じた、とも考えられます。
光玉の言い出したこと-−−真光の研修を受けてオミタマを首にかけ手をかざせば『光』が出る、と教えられ、光が出ると信じて手をかざすのが真光信者(『組み手』)です。『受光者』に霊動と呼ばれる現象が起これば、真光の主張が証明されたと思ってしまいます。手をかざした結果、光が放射されて憑依霊に作用したためにこの現象が起こった、というわけです。
光玉や彼に続く教団がそう言う、自分もそれらしい体験をした、あるいは他の信者の体験談を聞いた、だから真光は本物である、と思い込んでいます。
しかしながら、『憑依』『霊障』はもとより、手をかざせば『光が出る』ということでさえ、実は証明されていません。
『神の光』は高次元の光なので、その域に達していない科学(現代唯物のみの「仮の科学」〔注1〕)ではキャッチ出来ないのである、との説明もありました。つまり、科学では証明できない、と言っていることになります。
<現代科学がそこまで行っていない>というのは実に誤魔化しが効く説明です。
科学的には証明出来ないのが当たり前のように聞こえるし、科学がもっと進歩すればやがて証明されるだろうとの期待を抱かせることが出来ます。同時に、その存在が証明されなくても、<科学がそこまで進歩していないからだ>と、いつまでも信じ続けさせることが出来るのです。
科学は所詮仮の科学で、神の科学ではない、と、科学への不信感、科学的考え方への不信感を植え付けています。真光は神の科学であるのだから、低い次元の科学では確認できないものである、故に検証できなくてかまわないのだ、教団がそういうのだから、そして自分もそう信じるから、光が出るというのは事実である、と信者が勝手に決めつけ、そう確信するよう誘導できます。
ということは、あると確認できないものを『ある』と断定して、信者に『ある』と思わせていることになります。『ある』と確認できないものを『ある』と断言しているということは、実際には無いものを『ある』と言い張っても、真光の世界ではそれで通る、ということにもなります。
手かざしを体験してもらえば、何かあると感じてもらえる、というのも真光信者が期待することです。実際『受光』すると、温かく感じたり、圧迫されるように感じたりする人も中にはいます。しかし、それだからと言って、手から『(神の)光が出ている』との真光の主張が正しいということにはなりません。
暗示による効果ということも大いに考えられます。それに真光以外のところでも、人は目に見えない何かを感じることもあれば、霊動現象と同じような現象が出ることもあります。これらは真光の研修やオミタマや手かざしやその教えとは無関係のものです。〔注2〕
真光信者の中には、光が出ているのが見えた、とか、霊視の利く人には見えるそうだ、と言って、確認されたかのように話す人もいました。
また一方では、神の光は普通は見えないようになっている、それなのに見えるのは霊障、という説明も聞いたことがあります。なにかちぐはぐです。でも、真光の世界では、ちぐはぐなことでも<奥の奥があるから>で済まされて、そこで信者の思考が停止してしまいます。
ネットで下記の書き込みがありました。
光が見えるのは霊障だそうです。
高次元な神の光は検証できないそうです。
つまり見えないのが当たり前で、見えたらマズイもの。
というか、その前に、
真光言わんとするところの光が、神の光かどうかも検証できないということです。
そんなものは信じるに値しませんね。
たとえそれが「人が本来備えている・ヒーリングパワー」であっても
検証できないことをいいことに、
真光が神の光と言い切っているだけだから。
それにしても真光の神の光は、
とことん癒されない光だということだけは、過去の歴史で証明されているね。
救われた人なんて、誰もいないもの。笑 ーー崇教真光を斬れ!ー真光被害者の会;154
「真光で救われたと思い込んでいる人」はいましたし、今でもそういう人はいることでしょう。しかし検証に耐え得る資料があるものは一件もないでしょう。それでも信者は<手から光が出る、それで人々が救われる>というのは事実である、と信じ込まされています。
真光信者は、信じることや思い込むことと、事実との区別が一般の人より遥かに曖昧で、混乱しています。現実の事実を聞いても、修正が効きません。もちろん修正したら、真光信仰(神向という字を当てはめて誤摩化しているが)は成り立たなくなります。だから、現実の事実を指摘されても、矛盾を指摘されても、真光はそれでも正しいと言い張り、真光の事実や矛盾を指摘する人々を口汚くけなして、かたくなに真光擁護・真光信奉を続けるのです。そんなところも真光の手かざしと教えに染められた結果でしょう。ネットでの擁護派・信奉者の書き込みを見てもわかります。
それにしても変だと思いませんか。真光の業は『神の光』で、霊を浄め、魂を浄める業であると言います。真光で霊魂が浄まれば、病気が治る、不幸に遭わない、人間が善化する、性格が良くなる、争いの心が無くなる、等聞こえの良い効用を光玉は並べました。〔注3〕 病気が治る、不幸に遭わない、等は簡単に言えば眉唾物ですが、それに加えて、真光擁護派・真光信奉者の罵詈雑言は、真光がおよそ「浄める」とか「浄まる」とか「善化」等には縁がないことを示していると言えませんか。<人と対立して言い合ってみたりすることが嫌いな性格に知らぬ間に変わる>(『御対談集』p182、〔注3〕参照)との光玉の弁も、現実からはほど遠い、中味を伴わない陳述だということになるでしょう。
ところで、ラーマは実際に『お浄め』を受けて、『光なるもの』を感じたのでしょうか。それとも自信満々の光玉に感心したのでしょうか。お互いに友人関係になったというわりには、どちらもお互いのやっていることや教えを取り入れたようには見えないのですが。
光玉は、真光の業はヨガの真髄と同じ、と示唆しつつ、ヨガの真髄は何か、ということになると的確な理解は示していないし、瞑想や行は否定しました。〔注4〕一方、ラーマは光玉の説く『霊障』『憑依』を受け入れて信じたようには見受けられません。
ラーマが光玉の言ったことをどのように受け止めたのか、直接知る資料となる彼の著書『Living with the Himalayan Masters』は残念ながら手元にありません。が、「真光とスワミ・ラーマ」(2009/04)」で紹介した、このヨガ行者の弟子のウェブサイトにそのヒントがあるかもしれません。その記事によると、『光』が出ている、と心で思い描く、想像するやり方、との説明がされています。つまり、現代風の言い方をすれば、イメージ療法に相当すると言えるでしょう。
〔注1〕<現代唯物のみの「仮の科学界」>との表現が『初級研修テキスト;第12|真の科学の暁へ』に見られる。
〔注2〕例—
*『真光とスワミ・ラーマ <4>』で紹介した、ラーマの健康に関する話のなかに、瞑想も勧めている箇所がある。じっとして目を瞑ると、体が動くが、これは単に体の乱れであると言う。
* 気功師 Chunyi Lin は その著書 『Born A Healer』で、自分の経験を述べている。両膝の痛みに苦しみ、色々と療法をやってみたが、改善せず、有名な気功師の講習会に参加。目を瞑ってしばらくすると体が前後左右に揺れ、やがて転がり回り、それからのどが変な音を立て、突然笑い出し ...等と自分の意思ではない動きや、また寒さ、熱さ、かゆさ等の感覚も体験。この講習会直後、両膝の痛みは消え、再び走ったり跳ねたり出来るようになったと言う。このような体の動きは気の動き、気の反応と説明されている。
〔注3〕例—
* 神性化を可能ならしめると不幸とか病気がついでに治ってしまうということです。そういう行き方で人類を善に切り換えてしまう。それが ”真光の業” なんです。 ーー『御対談集』p177
* 問答無用で人間の性格を直して、ついでに病気も治してしまうというのが、今日の ”真光の業” なのです.ーー『御対談集』p178
* 人間が無病化する状態になるとそれだけ悪霊、悪魔がいなくなったということが一つ。だから無病化します。悪魔がいなくなっただけこの人の性質が良くなるでしょ。言い換えますと心が非常に浄まっていく。
そうすると人の心というものは非常に穏やかになるのです。穏やか、すなわち平和になるわけです。したがって、怒るとか妬む、それから憎む、それから短気がなくなっていく。
それで非常にムードが明るい人間に変わってしまうんです。争うということが嫌になってくるわけです。人と対立して言い合ってみたりすることが嫌いな性格に知らぬ間に変わります。そうしようというのではなくて、知らぬ間に変わってきてしまう。 .... ーー『御対談集』 p181ー182
〔注4〕『真光とスワミ・ラーマ』(2009/04)『真光とスワミ・ラーマ <2>』(2009/06)参照。
ーー火の鳥Phoenix3000